Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

田中功起さんのツイッターより

田中功起 (kktnk) on Twitter

アポカリプト」を見る。ここのところ宇多丸さんのベスト圏内を見ている。これがオールタイムベスト。メルギブソンのこだわりがはんぱない。映画における共同作業がある種の限界を突破する瞬間。全編マヤ語撮影+エキストラのすべてが衣装が違う。隅々までよき仕事が宿る映画。

ある一定の職能をもったひとたちが一カ所に集められ共同作業をしなければならなくなる。個人作業が普通だから、エゴがどんどん出てくる。予想外に。トロントでは3人だった美容師を、9人集めることができての撮影を編集中。人間は果てしないなあ。

そうそう、グループ活動を推奨・推薦するならば、それを推奨する本人もグループ単位でなければならないんじゃないかな。結局個人の趣味趣向でグループ活動を支援・評価するんじゃ、「グループ」を評価する基準にその本人が満たされていない。

いまさらだけど、作者を解体するものは「グループ」やコラボレーションではない。「グループ」はそれ自体が作家性を帯びる。ピクサーしかり、ジブリしかり。コラボレーションは個人のよせあつめでしかない。

共同作業の可能性は、その都度不確かな要素の入り込む余地にこそあると思う。だから映画は面白い。監督がいくら思い撮りにやろうとしても大概はうまくいかない。監督の思い通りに撮れたからといっていいとはかぎらなかったり。

いや、そもそも監督の完成のイメージを忠実に再現しようとするやりかたはもはやあまり創造的ではない。なので不確かな偶然性の導きいれ、でさえも手法の範囲内であるとして、それも監督のイメージに収斂されるだろう。じゃあ、どうですればいいのかな。

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「ローカルな関係を徹底的に展開して行った時に出て来たかたち」dot architects>「1995年以後」より

「毎回土地も違うし、政治的な力も違うし、クライアントも、プログラムも違う。それだけで十分なんだと。そういうスペシフィックなものをうまく取り込んで考えていけば面白いものができる」重松象平>「1995年以後」

先のふたつの引用あたりに制作の可能性があるように思う。要素間の再配置と現場の把握。個人の問題を越えて、どこか遠くに連れて行ってくれる可能性。うっとうしいぼくらの自意識を蹴飛ばしてくれる可能性。

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常軌を逸しているアマルフィ評を発見。このひと確実に頭おかしいのか?ますます見なくちゃアマルフィhttp://bit.ly/mbTbK

@moimura 「アマルフィ」見ました。とくに二回のブラックアウト、宇多丸さんの解説を聞いていたにもかかわらず驚かされました。それにしてもこんなものができてしまうこと事態が驚きです。この映画の中に日本における創造性の負の問題が象徴されているように思います。その意味でホラーでした

アマルフィ」おそらくこの映画を見て楽しんでしまった場合、自分の感覚はテレビ的なるものに染まっている。映画的な感覚になれているひとは、不可思議な組み合わせ、展開、編集目白押しなので、ある意味で感覚が揺さぶられる。この映画はいわばぼくらの感覚を試している。自己確認出来る意味で必見。

@moimura そうですね、当たりに行くのもいいですね。今日、ちょっと遠いけどもうひとつ別の日本のビデオ屋見つけたので、アマルフィももういちどちゃんと見てみます。これは勉強になる気がしてきた。カンフー少女も探してみよう。

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