福居:今までにギャラリーなどの実際の空間で発表してきた写真は、今回の展示と同じく夜の写真のシリーズです。写真を始めたのは2004年頃からで、使っている機材などは変わってきていますが、写真について考えていることはあまり変わっていないと思います。
たとえば、夜の写真を発表している作家といえば、ブラッサイから始まりいろいろな人がいますが、どちらかというと文学的な想像力から生まれてきたような写真というか、あるいは、映画の中でよく描かれるような明暗の劇的な対比で見せるタイプの夜の景色を、写真でなぞったようなものが多いかと思います。自分が夜の写真に取り組むにあたって、そういった従来の夜の写真とは違うものができるのではないかと思って、こういった写真を撮り続けています。
小山G:文学や映画にみられるような夜のイメージと、福居さんの作品とはどのように違うのでしょうか。
福居:すでに文学や映画で扱われているような夜のイメージを写真で反復してもあまり意味がない、というか、そこにそれほど可能性を感じないので、違うことをやってみるということです。今回展示している夜のシリーズの作品は、実際に人間の眼でこういうふうに見えるという状態を、そのまま再現するように撮っています。従来の夜の写真の多くは、「こういうふうに撮るとドラマチックな効果が生まれる」とか、「昼間の光とは違って美しい状態になる」とか、といったような発想から来ていると思いますが、僕はあくまで「そのままを撮る」というつもりで夜の写真に取り組んでいます。
こういうふうに夜が明るく撮られている写真を見ると「夜の風景はこんなふうに明るく見えないのでは」と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、見る方によっては、たとえば、夜にランニングしている方などから「ああ、こういうふうに見えるよね」というふうな感想をいただくこともあります。この見え方の違いは人間の眼の明順応や暗順応とも関係しますが、何よりも人が思っている以上に夜の日本の都市にはたくさんの明かりがあるから、僕の撮った写真のように夜の風景が見えるんです。では、なぜそのように見えないのか。これは逆に、光が多くて見えていない状態になっている、ということがあるからだと思います。たとえば、正面から車のヘッドライトに照らされたりすると、人の眼はハレーションを起こして、ものが見えなくなりますよね。そのような状態で見ているから、見させられているから、夜の風景が見えてこないんだと思います。そのような現象が起きるような状況を取り除いて、強い光が自分の見ている方向の後や横だけにある場所を選び取ってカメラに収めると、僕の撮っているような写真になります。
小山G:都市の風景は人工的な光によって照らし出され、またそのような光によって際立って見えるものがあると思うのですが、今回の展覧会のタイトルは「アステリズム」という「星群」を意味する英語ですね。このタイトルはどのようにして決められたのですか?
福居:そのタイトルに決めた理由はいくつかあります。そのうちのひとつはギャラリーのプレスリリースにも書いていただきましたが、夜に輝く星というのは明るいもので、それが1等星や2等星ともなればそれに自然に目がいくものですよね。明るく輝いていて価値あるものと言っても良いかもしれませんが、それは地球から見ているからそう見える(その星の実際の明るさやその星との距離に関わらず)というだけであって、見る位置をずらせば星の明るさもそれぞれ変わるわけです。誰もが自然に目を向けるようなものではないものを写真に定着させる(ことで、ものの見え方や在り方を転換する)というような意味合いから、自分がやっていることのアナロジーとして「アステリズム」をタイトルにしました。
小山G:星星の中でもよく目のいくようなものは「星座」として有名ですよね。
福居:そうですね。それはしいて言えば、あらかじめ「これを見なさい」というふうに前もって与えられている星星のかたちです。しかし、僕は必ずしもそう見なくてはならないわけではなくて、そうではない見方をしても良いのでは? と思います。
だから、自分が目を向けるもの、たとえば今回展示してある写真ひとつひとつを星に見立てて、それを結び合わせてゆくことで、いろいろとさらに新しいものが見えてきたり、新しい意味が生じてくるといったことがあって良いし、それは決められたものではなくて自由であって良いと思います。
小山G:今回の展覧会の展示では、ひとつひとつの作品が結び合わさるからこそできる見方もあるかと思います。
福居:たとえばこの展示室(ギャラリー1)でいえば、壁に3点ずつかけてあるので、その3点で見ても良いかと思います。この展示室全体としては、植物が入っている写真を選んでいます。ただ、植物そのものを撮っているのではなくて、都市の建築物、その建築物がある空間、そこにある植物という3つの関係を撮影しています。街の中にある植物は「自然」ということになっていると思いますが、僕はそれがいわゆる自然だとは思ってないんです。その植物がそこにある。しかし、なぜそこにあるのかというと、そこには人間の意思が行き渡っていて、それが刈り取られるか否かというのは人の判断しだいなんです。すべては人によって取捨選択されていて、そこにあって良いのかどうか、そのレイアウトというか配置は、すべてデザインされていると思います。その時点で人間の手が入っており、自然ではないと思うんです。
今回、この大きな展示室、少し小さな展示室(ギャラリー2)、通路、の3つの空間をどう使うかということで展示方法を考えました。
空間ごとにそれぞれ別々の意味を持っている写真を展示してあります。たとえば少し小さな部屋には、都市のエントロピーが増大してゆくような、都市がどんどん発展し増殖していく状態を示すような写真9点を選びました。この9点と大きな展示室の9点によって、植物が人間に管理されながらも人の意思を超えて育っていくような状態と、現代の都市が発展し膨張していくような状況を重ね合わせているつもりです。
小山G:福居さんはご自身のウェブサイトでも定期的に写真を発表していますね。
福居:僕の考えとしては、写真とは一点ずつ見るものではないと思っていて、このような展覧会での作品発表と、ウェブサイトでの写真発表を平行して続けています。この2つがつながっていくことで、より豊かなものの見方が生まれてくることを期待しています。作品を展示で発表するからといって、インターネットで発表するものが重要ではない、ということはまったくありません。どちらのほうに価値があるということではなく、そのどちらもが僕にとって大切です。
写真は一点ずつで見るのではない、ということについては、一点で作品が完結するタブローを作るというような意識、一点ずつの完成度だけを求めてしまうような価値観、それは西洋のものの見方の影響が強いのだと思いますが、それに対する違った見方や価値観を出していきたいということもあって、インターネットでの発表も続けています。
小山G:前回の展覧会からこの3年の間で影響を受けた人・もの・出来事などはありますか?
福居:この3年間というと難しいですが、今回の展示でいえば、もともと写真を始めた当初は中平卓馬さんの写真に興味がありました。好きだったのは、彼の初期の夜の写真ではなくて近年のカラーでくっきりと撮影されたものです。そういうことから考えてみると、僕の写真は「夜の写真を現在の中平卓馬のように撮ればこのようになる」というふうにも言えるかもしれません。
都市を扱っているという意味では、畠山直哉さんもどこかでエントロピーに関して言及されていたと思いますし、いろいろと刺激を受けています。また、小山泰介さんの作品も面白いなと思いますし、いくつかのシリーズは興味深く見ています。
エントロピーということで言えば、美術の世界で最初にエントロピーというテーマを扱ったアーティストとしては、ロバート・スミッソンの名前が挙げられると思います。
観客の方からの質問:福居さんの作品は画面の隅々までピントが合っていて、全体が等価に写っているのが特徴的だと思いました。
福居:人が何かを見たときに、どこに目を向けるかというのは案外ランダムで、あるいはランダムでなければ、すでに何らかのバイアスがかかっている状態だと思います。画面の全体にピントが合っているということは、どこを見ても良いということです。
だから、見ているうちにいろいろと目が動くと思いますが、自分が見ているもの、見ようとしているものが意識されてくると、自分がものを見るときの傾向というか、目がどこに向かうかという特性がわかってくると思うんです。見ていることが自分の中で意識化されることが大切なので、あえて特定のものだけに視点が向かわないような等価な状況をつくっています。毎回見るたびに目が向かう先、目がたどる道筋が変わるような作品です。そのときの心の状態や気持ち、作品への対し方、見るときの環境などによって見えてくるものや感じられるものが変化したりもすること、そして、さらにそれが動いていっているということが意識されればいいなと思っています。
観客の方からの質問:今回の作品制作は、まずアステリズムいう言葉を思いついてそれから撮影されましたか? 展覧会名はどの時点で考えたのですか?
福居:アステリズムという言葉は展覧会の内容を構成する段階で考えました。写真を撮っている時点では、考えていません。ただ、今回この展覧会を「アステリズム」という言葉をタイトルにして開催したので、今後は、というか今すでに「アステリズム」という言葉を僕の意識から消すことはできなくなっていると思います。
そこから話をつなげるなら、僕の写真を見てあまり興味のない方はすっと通りすぎていくこともあるかと思うんですが、しかし、目にしてしまったからにはその人の意識から消す事は難しい、つまり、見たものはすでに意識の中に書き込まれてしまっています。以前から、このことを何かに使えればと思っていて、僕の作品を見た経験が、実際にものを見るときに蘇ってきたりすることが、僕は大切だと思っています。
これはさっきのタブローの話ともつながりますが、僕がこの夜のシリーズでやろうとしていることは、一点のみで完結するような美しい写真、すばらしい写真を手に入れるというようなことではないんです。この展示空間に並んでいる写真はあくまでも媒体であって、それがあることによって、それを見ることによって、そこでどういう反応が起きるのか、何が見えてくるのか、といったことが重要だと考えています。なので、こうしたもの(ものとしての写真)だけではなくて、そこから生じるものごとこそが作品だという考え方をしています。
小山G:今後のご予定は?
福居:この夜のシリーズはこれで続けたいと思っています。ただ、夜の写真の人、というふうな印象だけで見られてしまっても仕方ないと思いますので、他のシリーズもいずれ発表できればと思っています。見られているのだけれど、ちゃんと見られていないようなもの、というふうな現在の自分のテーマにつながってくるようなものに取り組んでいきたいと思います。