Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

第43回例会レビュー - 写真研究会

レヴュー:スナップと日常性―1970年代の「私写真」再考

発表者 甲斐義明氏


荒木経惟の『センチメンタルな旅』(1971年)は、荒木自身が私小説こそ最も写真に近いものだとして発表し、写真評論家の飯沢耕太郎などによって「私写真」とみなされてきた。写真を私小説的であると述べたものでは、1954年の土門拳による、安井仲治の写真についての文章に遡ることができる。私的な言語が存在しないように、媒体である写真が私的であるとはいえないため、発表者は「私小説/私写真」の定義を私的な事柄や場面を取扱い、その時の感情や考えの記述が客体化されず混然とした状態にあるものとした。しかし、例えば私的なオブジェを撮影したソル・ルウィットのコンセプチュアルな作品は、Autobiographyとは何かを分析的に問うているため、プライヴェートな眼差しであるはずの私写真とは区別される。また、1971年の同写真集の中で、荒木は新婚旅行を日常と見なしている。では、私写真は日常写真なのだろうか。ここで発表者は、「私的」であることと「日常的」であることは、異なりながらも重なり合う二つの集合であるとしている。


ところで、1966年にアメリカで出版された展覧会カタログ、ネーサン・ライオンズ編集の“Contemporary Photographers:
Toward a Social Landscape”
は、日本で「コンポラ写真」という言葉を生むきっかけとなった書物である。その影響を取り上げてみると、1967年の草森紳一の書評の中で、同書に出てくる写真は「日常的なさりげなさ」において共通すると紹介されている。また、1968年6月に『カメラ毎日』に発表された大辻清司の文章をみても、「コンポラ」は「日常性」と結びつけて受容されていることが分かる。ここで使用された「コンポラ写真」という言葉において、日常的であることと私的であることの違いは吟味されていない。つまり、当時の日本では、現代写真の関心が日常的な情景を表現することや個人の内側に引きこもる態度と結びつけられたのである。金子隆一氏の補足によれば、大辻によって日本に導入された「コンポラ写真」の概念は1970年代前半に拡張し、社会的な構造をもつまでになった。そのような中、1971年の荒木の『センチメンタルな旅』で「私写真」という概念が出てくるが、荒木の写真は当時コンポラとは見なされていなかったという。

http://shashinken.exblog.jp/14695029/
報告者は土山陽子さん。


◇ 『EOS ArtBooks Catalogue 2009 / Fall』

ストリート・スナップというジャンル / 甲斐義明

http://www.eosartbooks.com/news/catalogue2009b.jpg

本カタログではふたつの柱として、展覧会カタログを巡る新進の研究者によるテキストを巻頭特集に、新しい美術の動向を伝えるカタログの紹介を『cutting-edge』欄に、それぞれ掲載いたしました。

編集:筒井宏樹
テキスト:粟田大輔/石崎尚/上崎千/大森俊克/奥村雄樹/甲斐義明/沢山遼/杉原環樹/筒井宏樹/成相肇/星野太
デザイン:渡邉麻由子

http://www.eosartbooks.com/news/200910.html
参考1。


◇ 『photographers’ gallery press no.7』

特集
写真史を書き換える──写真史家 ジェフリー・バッチェン
ある一枚の写真を諸関係の網目として読み込むことを誘い、写真史の脱構築を図るスリリングなトルボット論「A Philosophical Window」、もっとも膨大で一般的な写真の形式であるスナップ写真を主題に写真史の言説様式そのものへの革新的アプローチを示すバッチェン最新の論考「Snapshots: Art History and the Ethnographic Turn」そして本誌オリジナルのロング・インタビュー(訳・聞き手/甲斐義明)を加えて掲載!

http://pg-web.net/scb/shop/shop.cgi?No=206
参考2。