Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

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>>>「ただし、ここで集中的に論ずるのは

後者のポップに限定される。ただたんに消費生活の「反映」でしかない
ようなポップ・アートならば、あらためて俎上に載せる必要は感じない
からだ。もしそれらについてなにか語るのならば、それら和製ポップの
イメージが、いかに「おいしい生活」を再生産するためのイデオロギー
として機能したかを、社会学的に「広告批評」すれば事足りるだろう。
戦後の日本の美術の貧困を正面から扱おうとするわたしの「暗い動機」
の対象などに当てられた日には、とんだ迷惑にちがいない。」
椹木野衣『日本・現代・美術』より
http://www.amazon.co.jp/dp/4104214019

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060328#p6


>>>清水穣『白と黒で──写真と……』(現代思潮新社)より その2

 別の意味でわかりやすい、つまり消費しやすいのがホンマタカシ『東京の子供』(リトルモア、二〇〇一年)であろう。この人の『東京郊外』は、「スーパーフラット」な東京郊外のウサギ小屋を、美術界で大流行の「タイポロジー」で撮影して日本写真界に持ち込んだ、企画ものであった。七〇年代に荒木経惟が広告の「リアル」に「私」を賭けたのは、広告ではない自我が辛うじて存在しえたからだが、現在の我々にそのようなものはない。だからかつてラディカルな行為も、今は計算ずくの自己プロデュースにしか見えないのである。つまり、ホンマタカシホンマタカシのプロデューサーだということだ。アーティストではなく上手なプロデューサーであること自体は、メジャーを目指して自己に適した手段をとることだから批判されるべき筋ではない。しかし、制作からプロデュースから批評まで自己完結した彼の写真を他人が「見る」必然性がどこにあるのだろう。ステレオタイプの作品には「これは広告です」というメッセージのほか何も写っていない。次作は「東京の女」かと期待していたら「ニューヨーク」であった(さすが)。

▽清水穣さんの身も蓋もないきわめて厳しい論調(メディア芸者的語り口に比して)からすると、

 やはりホンマタカシさんや川内倫子さんの写真は、清水さんの趣味じゃないということでしょうか。

 そういえば、メディアに露出の多い写真家(フォトグラファー? カメラマン?)を

 きっちりと論評するような(少なくとも言うべきことを言う、言いにくいことも言ってしまう)批評家は、

 きまって商業媒体に露出しなくても食べられる人々(それとは別に本業がある)のように思います。

 商業媒体やその周辺でやっていくほかない人々は、

 お得意様をけっして悪く言わないのが特徴です(未来のお得意様になりそうな相手ももちろん含む)。

 なんだか、鎌田哲哉さんの「経済的自立は精神的自立の必要条件である」というテーゼを思い出しました。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051222#p6

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051228#p14

荒木経惟さんはどう見ても「計算ずくの自己プロデュースにしか見えない」のに、嫌みな感じがあまりしないのは何故か?

 そういえば、浅田彰さんは、荒木経惟さんと森山大道さんをまったく認めていませんが……中平卓馬さんは絶賛。

 あと、たしか東京都現代美術館に所蔵されている作品に、荒木さんがホンマさんとよく似たスタイルで撮影した

 ニュータウンの住宅の写真(やや色が濃いめ?)があったように思います。

 現在、東京都現代美術館の常設の最後の部屋(宮島達男さんルーム)に

 ホンマさんの『東京郊外』が展示されています(2〜3点だったと思います)。

 しかし、薄暗い部屋なので光の状態が悪くて

 何だかイマイチでした(色彩が重要なファクターを占めるということでしょうか)。

▽「計算ずくの自己プロデュース」で思い出すのは、ホンマさんと同様に

 日芸日本大学藝術学部写真学科)→ライトパブリシティというルートを経由して

 フリーランス・フォトグラファー(カメラマン)になった

 digi-KISHIN! a.k.a. シノヤマキシン氏(しのやまきしん名義も!)=篠山紀信さんの動向です。

 「ストックフォトに写真を提供」の次はどういった切り込み方をしてくるのでしょうか?

 できれば有能な編集者か出版プロデューサーと組んで、

 『晴れた日』や『オレレオララ』の頃の輝きを取り戻してほしいものです。

▽清水さんは、ホンマさんを完全にプロデューサー扱いで斬り捨ててますが、

 『きわめてよいふうけい』と『カメラになった男 写真家 中平卓馬』の一件なんかが、

 すでに耳に入っていたのかもしれません。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070619#p7

▽しかし、ホンマさんは何かの雑誌で、広告も自分の作品も同じテンションで分け隔てなく撮って、

 作品点数が溜まってきた50代・60代で勝負する(うろ覚え)というふうなことを語っていたので、

 現時点でどう言われようと、あまり興味はないのかもしれません。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070902#20070902fn2

▽先日、展示を見たホンマさんの『東京郊外』の写真は、撮影当時の都市部に住む人々の平均的生活感覚よりも

 ほんの少し先を行くような洒脱さとクールさを醸し出すように撮られているように思いました。

 だから、今の時代の眼で見ると、時代に追いつかれてしまっている部分が容易に感じられて、

 古く見えてしまうのかもしれません。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080520#p3

▽ここに広告という観点を導入してみると、広告写真とはつねに時代の半歩先〜二三歩先を行くものだから、

 『東京郊外』の写真が、撮影された当時の鑑賞者の感覚とベタな広告写真のあわいをゆく絶妙の距離感、

 つまり、ドクター茂木健一郎的に身近にも感じられるけどちょっと先を行っていて、

 でも少々どんくさい部分もあるというふうな半歩先の距離(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070706#p11

 でもなく、セグメンテーションによる戦略的優位を戦術的にはあえて放棄してみせることが

 逆に「カッコイイ」んですこれが! 今は! というような、装われた身振りによる、さかさまの戦術としての

 三歩以上先を行く突っ走り方でもない、その中間を浮遊するかのような距離を成立させていたのだとしても、

 商業主義におきまりの「What's next?」的慣習行動の同調化圧力(同調圧力)によって時代が移り変わって、

 広告写真のトレンド(笑)と後期資本主義下にある人々の生活感覚がそれにひきずられる形で

 次の段階にスライドしていったときに、清水穣さんの言葉を借りれば、人々の心を吸引する広告的な真空度が

 もはや充分ではなくなってしまうというか。

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080522#p2


>>>清水穣『白と黒で──写真と……』(現代思潮新社)より その1

[略] それは、荒木経惟の頃から「下手ウマ」として多様化し、全ての差異を吸収できるようになった広告写真なのだ。だから「私の撮った写真とどこが違うのか」という冒頭の問いは、そこでは「広告写真とどこが違うのか」とずらされ、スナップ写真と広告写真の差異が問題化される。もっとも、この問いが我々を導く先は写真の本質というよりも、現在写真を撮る苛酷な条件にほかならない。「世界は写真だ」は二五年を経て「世界は広告だ」になった。つまりすでに広告写真にならない写真は存在しない。スナップ写真は広告写真よりもノイジーな夾雑物が多く不純なのであり、真空度が充分でない、というふうに差異をつけてみる、とたんに、ノイジーなスナップ写真が広告にされるだろう。後に述べるティルマンス(彼もまた変容した広告雑誌でデビューした)の「戦争」がどれほど困難であり、広告に吸収されてしまわないために厳密な戦略を必要とするかが窺い知れるはずである。

 ところが、若手作家の多くの写真には、明るい午後の叙情というか京王線沿線の日曜日というか、希薄な叙情が満ちている。木漏れ日をまぶしそうに見あげ、春霞のように露出オーバーで、美しく輝く今ここでの生の瞬間を切り取って残したい……人々のなんと多いことか。写真を撮ることで「今このとき」を直ちに「過去」にして「思い出」として所有したがる強迫的な欲望は、「今」を充満させる自己が空っぽであるという事実に由来する。九〇年代以降の世代、それは自己と身体の隅々まで広告にほかならない世代であり、それ以外の自己や身体を知らない。「人間だったらよかったのに」、むしろ内面という商品をあてがわれ続けた昆虫的存在であって、全面的な「おいしい生活」のなかで生まれ、養殖されてきた世代なのである。叙情とはうつろな容器に溜まっていく液体であるから、広告はかならず叙情的であり、叙情的広告こそは若い世代の「私」を充たし養ってきた。自分に正直であるとは、うつろな「私」に「叙情」が溜まるがままに任せるということなのだ。アラーキーの子供たちはアラーキーが戦略的に選択したことを、生来の状態として体現してしまっていると言えるかも知れない。

[P157-158]

荒木経惟さんが、「下手ウマ」とされたのは、おそらく先行する世代である

 VIVO(川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明奈良原一高細江英公)との比較による?

▽しかし、湯村輝彦さん以前に「下手ウマ」(ヘタウマ)という言葉はあったんでしょうか。

 それとも荒木さんが、そう呼ばれた(自称した?)のは80年代以降?

ティルマンスの戦い=勝ち取るべきヨーロッパ的「私」「個」の問題。

杉本博司さんは自分の写真が広告に使用されることを完全に拒否してきた。

▽「僕は描きたいものしか描かないよ」by 奈良美智さん

▽目指すところ次第では、年中5月の春霞→絞り開放、逆光、ハレーション、露出オーバー、タンスグテンという方法もアリでは?

 いや、やっぱ今となっては厳しそうです。

▽「おいしい生活」=西武セゾングループ広告コピー。糸井重里さん作。

 糸井さんの代表作には、「不思議、大好き」「くう ねる あそぶ」「ロマンチックが、したいなあ」

 「じぶん、新発見。」 「ほしいものが、ほしいわ。」 「本当の主役は、あなたです。」

 「おとなもこどもも、おねーさんも」「いまのキミはピカピカに光って」 「僕の君は世界一」

 「いいにおいがします。」 「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」 「私はワタシと旅にでる。」などがある。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E4%BA%95%E9%87%8D%E9%87%8C

▽ある搾取構造の存在? それはどこにでもある?

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080521#p3


※過去の「カネデカワレタカゴノトリ」関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%A5%AB%A5%CD%A5%C7%A5%AB%A5%EF%A5%EC%A5%BF%A5%AB%A5%B4%A5%CE%A5%C8%A5%EA