Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ジジェクのスピーチを訳してみた - There's A Riot Goin' On

原文はこちら。
http://www.imposemagazine.com/bytes/slavoj-zizek-at-occupy-wall-street-transcript
YouTube で見ると周囲の聴衆が口伝えする「人間拡声器」の様子が分かる。プロテスターたちは拡声器を警察に取り上げられたのでこの方式に。
http://www.youtube.com/watch?v=eu9BWlcRwPQ
以下、一発翻訳ですが…

彼らは私たちを負け組だと言ってるようだが、本当の敗者はウォール・ストリートにいる。連中は私たちのカネで莫大な額の保釈金を払ってもらったようなものだ。私たちを社会主義者だと言うが、いつだって金持ちのための社会主義が存在しているではないか。私たちが私的財産を侵害していると言うが、たとえここにいる全員が何週間も日夜休まず破壊活動を続けたとしても、2008年の経済破綻で破壊された個人の財産には及びもつかない。私たちを夢想家だという。でも、夢を見ているのはこのままの世の中が永久に続くと考えている人々だ。私たちは夢を見ているのではない。悪夢となってしまった夢から目覚めようとしているのだ。


私たちは何も破壊してなどいない。私たちは単にシステムが自己破壊するのを目撃しているのだ。誰でも知ってるマンガの定番のギャグ。ネコが崖にやって来るが、足の下に何もなくなってもそのまま歩き続けてしまう。そして、ふと下を見て気づいた途端、落っこちてしまう。私たちがここでやっているのは、ウォール・ストリートの連中に「おい、下を見てみろよ!」言うことだ。


2011年4月半ば、中国政府はテレビ、映画、小説などで別の現実やタイムトラベルを描いたものを禁止した。これは中国にとってよい兆しだ。中国の人たちはまだ別の現実を夢見ることができるから、それを禁止する必要があったわけだ。この国では禁止する必要すらない。支配的システムが私たちが夢見る能力すら奪ってしまった。巷にあふれる映画を見てみるがいい。世界の終末を想像するのは簡単だ。巨大な隕石がすべての生命を死滅させるだの何だの。それなのにあなたは資本主義の終わりを想像することができない。


私たちはここで何をしているのか?共産主義時代のふるったジョークを一つ。東ドイツからシベリアへ送られることになった男の話だ。手紙を書いても検閲官に読まれてしまう。そこで彼は友人たちに言った。「暗号だ。もし私の手紙が青インクで書かれていたら、そこに書かれていることは本当だ。もし、赤インクで書かれていたら内容はウソだ。」ひと月経って、友人たちは男からの手紙を受け取る。全部青インクで書かれている。内容はこうだ。「ここではすべてが素晴らしい。店は質の良い食べ物でいっぱいだ。映画館では西側の良い映画をやってる。アパートは広くて豪華だ。ただ1つ、赤インクだけは売っていないんだ。」
これは現在の私たちの生活そのものだ。私たちはありとあらゆる自由を享受している。でも、ここには“赤インク”がない。私たちの〈非-自由〉を表現するための言葉がない。私たちが教えられる自由を巡る言説―「テロとの戦い」とかなんとか―は自由を歪曲する。あなたがたがここでやっていること。それはすべての人々に“赤インク”を与えることだ。


ひとつ危険がある。自己陶酔してはならない。確かにここで起きていることは素晴らしい。でも、祭りは安っぽい気晴らしだ。重要なのはこのあと、日常生活に戻ってからだ。何か変わるだろうか?この日々を振り返って「私たちは若くて、ビューティフルだった」なんて追憶に浸ってほしくない。「私たちはオルタナティブを思考する自由がある」これこそが私たちの基本的なメッセージであることを忘れないでほしい。このルールが破られたとしたら、私たちはあるべき世界に生きていないということだ。しかし、道は遠い。私たちは真に難しい問題と直面することになるだろう。私たちが欲しくないものははっきりしている。では何が欲しいのか?資本主義に代わる社会機構とは?どんなタイプの新しいリーダーが必要なのか?


覚えておいてほしい。問題は不正や強欲ではない。システムそのものだ。システムが否応なく不正を生む。気をつけなければいけないのは敵だけではない。このプロセスを骨抜きにしようとする、偽の味方がすでに活動を始めている。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビール、脂肪分ゼロのアイスクリームなどと同じように、この運動を無害な人道的プロテストにしようとするだろう。私たちはもう、コカコーラの缶をリサイクルしたり、チャリティーに募金したり、スターバックスカプチーノを買ったらその1パーセントが第三世界の飢えた子どもたちに送られるなどといったことでは満足することができない。だから、ここに来たのだ。労働と拷問をアウトソースした後、今や婚活産業が私たちの愛と性をアウトソースし、見えてきたことは、私たちはもう長い間、政治参加をアウトソースすることを許してきてしまったということだ。それを取り戻さなければならない。


コミュニズムが1990年に崩壊したシステムを意味するのであれば、私たちはコミュニストではない。それらのコミュニストたちがこんにち、最も効率的で容赦ないキャピタリストであることを思い起こそう。こんにちの中国にはアメリカの資本主義を凌駕する勢いの資本主義があり、しかもそれは民主主義を必要としていない。だから、資本主義を批判する人が、民主主義の敵だなどと言われる筋合いはないのだ。民主主義と資本主義の結婚は終わった。変化は可能だ。


こんにち、可能であると考えられていることとは何か?メディアを追ってみればいい。テクノロジーとセックスの分野においては、あらゆることが可能であると考えられているようだ。月に旅行することも、バイオジェネティックスの力によって死を克服することも、動物やら何やらとセックスすることも。一方、社会と経済の分野においては、ほとんどあらゆることが不可能だとされている。富裕層への課税を増やしたいと言えば、競争力を損なうことになるから不可能だと言う。医療保険制度にもう少し金を回してくれと言えば「不可能だ。全体主義国家に通じる」と。死を克服できると言いながら、医療保険に予算を割けないというのは、どこかが狂った世界だ。


優先順位をはっきりさせる必要があるかもしれない。私たちが求めているのは生活水準を上げることではなく、生活を良くすることなのだ。私たちをコミュニストと呼べるとしたら、それはコモンズ(共有財)に関心を持っているという一点に尽きる。自然のコモンズ。知的財産の民営化のコモンズ。バイオジェネティックスのコモンズ。これこそが、私たちが戦わなければならない唯一の理由である。コミュニズムは確かに失敗した。しかし、コモンズの問題は今ここにある。


私たちのことをアメリカ人ではないと言う人もいる。しかし、自分たちこそが真のアメリカ人であると主張する保守派原理主義者たちはきちんと考えてみるべきだ。キリスト教徒とは?すなわち聖霊である。では聖霊とは?それは互いへの愛によって結ばれた信者たちの平等なコミュニティーであり、その成員は自らの自由意志と責任によってのみ拘束される。その意味で言えば、聖霊は今ここにいるではないか。そしてウォール・ストリートでは偶像を崇拝する不敬な異教徒たちが跋扈しているということになる。


だから、私たちに必要なのはひとえに忍耐だ。私が唯一恐れているのは、私たちがそのうち家に帰って、年に一度みんなで集まってビールを飲みながら「あの時はよかった」などと語り合うようになってしまうことだ。そうはならないと自分自身に約束してほしい。人は何かを欲しながら、それを手に入れようとしないことがよくある。自分が欲しいものを手に入れるのを恐れないでほしい。どうもありがとう。

http://snailtrail.seesaa.net/article/230603257.html