Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

2/05/2010 - 時代の終わりとオルタナティブなき世界 - POLARISCOPE

学生時代から親しくする友人がギャラリー山口の山口さんが亡くなられたという報せをくれた。ギャラリー山口が1月末で閉廊することになったという話を別の友人から数週間前に聞いたばかりだったので驚いた。説明するまでもないかもしれないが、ギャラリー山口は東京、京橋にあった現代美術の画廊で、80年代から建畠覚造さんや篠原有司男さんらキャリアのある作家の展示をするとともに、若手アーティストも精力的に紹介してきた。現代美術画廊の老舗と言ってもいいギャラリーである。僕が最初の個展をしたのもこのギャラリーであった。

当時からアーティストに限らず貸し画廊システムに異論を唱える者は多くいたように思う。貸し画廊というシステムのせいで現代美術作品がマーケットに流通しにくくなっているとか、アーティストが展示をするためにギャラリーにお金を払うのはおかしいとか、若手アーティストが自立できないとか、だからそれを改善するためには日本にもアート・マーケットが必要なんだとか、そんな内容だった気がする。当時、日本にコマーシャル・ギャラリーと呼べる現代美術のギャラリーは数えるほどで、それらのギャラリーのほとんどが主に海外のアーティストの作品を輸入するようなかたちで展示していたように思う。小山登美夫ギャラリーのように日本のギャラリーとして日本人のアーティストを海外に打ち出そうとするコマーシャル・ギャラリーがようやくでき始めたころだ。そういうわけで、そのときは貸し画廊で展覧会を開くことになんら疑問を持たなかった。加えて、当時の自分は右も左もわからずに、それでも誰かに作品を見せなければという衝動があった。だからとにかく目の前にある枠組みのなかで見せたというまでで、その後何度か貸し画廊で展示を繰り返して、それを苦痛に思いはじめるまでは貸し画廊システムを疑問に思うことはなかった。それに実際そのころは日本のなかで貸し画廊システムが機能していたと思う。若いアーティストが名の知られた貸し画廊で展示をすることに一定の意義があった。事実その展覧会はわずか1週間限りの展示だったにもかかわらず、批評家や学芸員を含む多くの人がギャラリーを訪れ、たくさんの人と出会った。その最初の個展で知り合った人の何人かとは、いまでも親しくさせてもらっている。そういうこともあって、ギャラリー山口で開いたその最初の個展は、今でも自分がした展示の中で思い出深いものとなっている。

ギャラリー山口で展示をしたのはそのとき限りだったが、それでもその後山口さんは、僕が東京に住んでいるあいだ、ギャラリーに行くたびに叱責するようにして励ましてくれたり、人を紹介してくれたりして、いろいろと面倒を見てくれた。


僕と同世代かそれより以前の世代の日本のアーティストは、いま世界的に活躍するような有名アーティストとなっているものでさえ、ほとんどが貸し画廊からスタートしているのではないか。ところが、いまの若い世代のアーティストは最初からコマーシャル・ギャラリーでやることを考えるという。

自分が展示をした貸し画廊はこの数年でほとんど閉廊してしまった。さまざまな批判を受けても、日本で貸し画廊が若いアーティストの受け皿として機能してきたことは否めない。ニューヨークには数百ものギャラリーが密集しているが、貸し画廊といわれるものはほとんどない。そのかわりに新人アーティストが作品を発表できて、彼らをコマーシャル・ギャラリーまで橋渡しする機関として、ノン・プロフィット・ギャラリーやオルタナティブ・スペースといわれるところがある。それらがきちんと機能しているのかどうかは別途に考察される必要があるだろうが、それらの多くは、コマーシャル・ギャラリーでまだリプレゼントされていないアーティストから作品の応募を受付て、彼らの展覧会を開催するということをその目的のひとつとしている。日本にも似たようなスペースがいくつかあるというが、それらは今までの貸し画廊に変わって、若いアーティストに機会を提供するような場所となり得ているのだろうか?貸し画廊こそコマーシャル・ギャラリー化などせずに、企業や行政と結びつき、そのノウハウを生かしてオルタナティブな道を歩んだらどうか、などと勝手に思ってしまうがそれは無理な注文なのだろう。


長年のあいだ日本の美術を支えてきた山口さんに哀悼の意を表します。

http://polariscope.blogspot.jp/2010/02/blog-post.html


◇ 2010-03-18 - 村松画廊とギャラリー山口の閉廊 - mmpoloの日記

 昨年暮れから今年1月にかけて、現代美術の中心的な画廊が2軒閉廊した。68年の歴史を持った村松画廊と30年の歴史のギャラリー山口だ。2月23日の読売新聞に編集委員の菅原敦夫がこの辺のことを書いている。

 山口光子さんの名前の漢字は、正確にはイ(にんべん)に光。

 年末、野見山暁治さんに、1月で閉廊することになったので、預かっている作品を返したいと連絡し、亡くなる前には飼っていた猫を知人に譲ったという。12月まで翌年の貸画廊の予約を受け付けていたから、1月の閉廊は本当に急なものだったのだろう。

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20100318/1268860419


◇ 2012.10.12 Friday 「ハイビスカスの様な画商」 - 篠原有司男公式ブログ

 帰米(アメリカ帰国)早々、山口光子さんの死を知らされて仰天した。
2日前日本にいて画廊を訪問したばかりだった。
会うのを楽しみにしていたのにその時は、彼女過労静養中とのことで不在。
信じられない!
あの山口さんが突然この世から消えてしまうなんて。彼女のニコニコした顔がぼくの目の前に、貼り付いてしまってどうしても引っ剥がせない。

 山口さんは八丁堀生れ、チャキチャキの江戸っ子。子供の頃は、猫をオンブして遊びに加わり、寄席に通い落語の大ファン、テンポの早い会話。
その上、いける口なので画廊の奥は自然飲兵衛の溜り場、飲み屋に変身。
そこへベテランアーティスト、美術館関係者が気安く立寄るから、ちょっとした文化サロン風にも見える。
 ”いかがですか”
の誘いに
”それじゃあちょっとだけ”
と飲み出してみると、話し上手聞き上手、アッケラカンの性格の上、会話の端々にオチが付き面白い。
こんな雰囲気はぼくには天国だ。

 ニューヨークは人種のモザイクかもしれないが、デタラメな日本語ばかりに馴らされているから、粋な会話に飢えているのだ。
ここはオアシス、ぼくにとってはバミューダ島の椰子に囲まれたハイビスカスの風の様にリラックスしてしまう。

 日本で美術館建設ブームが始まると、それ〜!と美容院でピカピカした髪にハイヒールをカタカタさせながら山口さんは、作家の売り込みに新幹線に飛び乗り東奔西走、ぼくの美術館個展、ボクシングペインティングになると、画廊事務所挙げて応援。
飛行機、ホテルの手配からボクシング用パネルの制作指導など。
有難いことにぼくはただグローブをぶら下げて成田に至着すれば良いと全く頭の下りっぱなし。
これ程細かく気の付く面倒見のいい人だった。

 日本で個展が出来る!
これは地元アメリカ人アーティスト仲間では垂涎の的だ。
美しく、清潔な国、黒澤、宮崎映像の国、忍者の国、そこで何度も個展が出来るぼくは、彼らにとってヒーローだ。
山口画廊の存在は、僕のニューヨークでのアート活動をどんなに勇気付け、エネルギーが沸騰して止まなかったことか!
"前衛は売れない、だが前進しなければならない!"
個展の度にニューヨークから送られて来る絵画オートバイ彫刻が倉庫に溢れる。
”そのうち片っ端から売れるようになりますよ!”
皆が夢を見ている、宵越の銭は残さない江戸っ子でも、この夢は宵越しどころか永遠に見続けなくては。

 画廊が消えても山口光子さんの残した強烈なハイビスカスの匂いは、京橋三丁目あたりから簡単に消えそうもない。

http://gyuchang.jugem.jp/?eid=36


◇ 2003.1.23 ギャラリー山口 gaden info おすすめランチ情報 讃岐うどん さか田(銀座) - アート情報 絵画 彫刻 版画 現代美術 コンテンポラリーアート おすすめ情報 おすすめランチ GA-DEN-IN-SUI-SYA 畫傳胤萃舎

●1980年に画廊をオープンされて、今年で23年目それまでは?

「他の仕事をしてました。画廊始める三年位まえから現代美術にかぶれたというか」

・・・切っ掛けはなんですか?

「友人が個展をやっていて、そこで交わされているのが現代美術の話だったので、私は不勉強で知らない世界だったから、それから展覧会案内を見て画廊を廻るようになって、続けている内に画廊の仕事が出来るような気がして・・・」

・・・飛び込むには勇気がいりませんでしたか?

「まあそうだけど。三年位見ていると流れも見えてきて、美術界の状況が多少判ってくるでしょ。だから画廊にも勤めないで最初の画廊は銀座3丁目( 今のコバヤシ画廊さんが後にB1Fに移転して来られた) のビルの三階 にオープンしました」

・・・画廊の形態は?

「企画と貸画廊の両方やらないと画廊の経営は難しいと見ている内に学んできて、画廊に勤めてから独立した訳じゃないから企画だけでは無理だろうと最初から思ってましたから、その代わり貸画廊だけずっとやっていくのは発展性が無いというか・・・。だから最初から貸しと企画両方でやろうと」

・・・作家との出会いはどうですか?

「作家の友人が出来たり 画廊を三年間見ている内に評論家と知り合いになって紹介を受けたり」

●所で以前はかなり大きなスペースの画廊をされていて。

「1993年にsoko画廊を東京画廊南天子画廊と一緒にオープンしました。私は1階だけで永井祥子さんが2階に入りました。
当時は銀座の画廊とsoko画廊の二本立てでやっていて二年間位両方を見ていると分裂してきて集中出来なくなって・・・。それに日本ではあまり大きな空間は・・・作家が作品が売れていかないのに大きな作品を作らなければいけないし、こちらも作品を預かるにはとても大きな倉庫が必要になってくるし負担が大きいんです。それで画廊を7丁目の一つの場所に移して・・・。唯、その銀座の画廊は空間は理想的でしたが家賃が高すぎたので、今のこの場所に移って来ました」

・・・銀座は家賃が高いですよね。その中で絵を売るのは大変ですね。

「そうですね。大きなスペースを持ちたいと思えば企画と貸しギャラリーの両立を やらないと私には無理ですよね。貸しギャラリーには新しい作家と出会える大きな魅力があります。
私は展覧会が好きだし展覧会をやりたいので、そうすると作家の方もその力を全開して作品を作って来る訳でどうしても大型化していくそれに対応していく為にはスペースが必要だなと」


●例えば作品にアドバイスされたり意見をされるんですか?

「 そういう事はあまりないです。アトリエに行って見せてもらって感想はいいますが、表現は作家の自由だと思っているので、反対に感想は私たちの自由だと思っているから色々な事はいいますね。まあ若い作家にはアドバイスめいた事もいいますが、ベテランの作家についてはお任せです」

・・・企画の場合は作品を売らなければならない訳ですよね。現状はかなり厳しいと思うのですが何か打破する方法はお持ちですか?

「作品を売る方法の事ですか? お客はさんは主に美術館ですから只管(ひたすら)営業努力をするのみです」

・・・でも美術館は購入資金が減ってきていると聞きましたが?

「購入予算がゼロだったり、凄く減っているんですよ。何処か購入予算がある所はないかしらと探します」

・・・アンテナを張っているんですね。

「資料を100冊作たって、その中から作品が1〜2点売れていくかなというような状況ですから非常に厳しいですよ」

・・・でも作家は作るのが好きだから作っているんでしょうし、山口さんも好きだから続いているんでしょうね。

「凄くすきですね。やっぱり美術や芸術に勝る仕事はないんじじゃないかと思っています」

・・・他の仕事は考えられないですか。

「考えられない事は無いかもしれませんが、何か疑問を感じながらしていたかもしれないですね。この仕事は物質的な満足とは違う精神的なものがありますね。
例えば作品を『いい作品だな』と思って何週間も見ていると当たり前だけれど大変な充足感がありますよね。展覧会をする事が作家に対する評価だと思いますすし」

http://www.gaden.jp/info/2003a/030123/0123.htm