Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ヴェネツィア・ビエンナーレ - Wikipedia

会場・パビリオン
ビエンナーレの主会場はヴェネツィア市街最大の公園・ジャルディーニ(正式名はカステッロ公園だが、「公園」を意味するジャルディーニと通称される)であり、園内には参加各国の政府が所有・管理する30の恒久パビリオンが建っている。恒久パビリオンを所有している国はアメリカ・フランス・ドイツ・ロシア・南米諸国など1930年代の強国や冷戦時代の西側陣営の同盟国、その他国際社会での政治力でパビリオンを建てることのできた国である。
パビリオンを持っていない国はジャルディーニ最大のパビリオンである展示館(旧イタリア館)を間借りするか、もしくはジャルディーニの外の市街各所にあるヴィラ(邸宅)を確保して自国アーティストの展示を行う。ビエンナーレのディレクターが企画する展覧会には、現在ではヴェネツィア共和国時代の国立造船所・アルセナーレの建物が使われており、イタリア館(2009年より)などいくつかの国のパビリオンもアルセナーレ内にある。
各国の代表にならなかった世界の若手アーティストを取り上げる企画展「アペルト」(Aperto)は、スイスの気鋭キュレーターのハラルド・ゼーマンがディレクターに就任した1980年に開始され、後にビエンナーレの公式プログラムの一部となった。「アペルト」は多くのアーティストの国際舞台へのデビューとなったものの1995年には一旦廃止されたが、1999年のディレクターに再度ゼーマンが選ばれると復活した。以後「アペルト」は毎回アルセナーレにおいて開催されている。


日本パビリオン
中村政人の『Q・S・C+mV/VV』、2001年の日本館は逢坂恵理子をコミッショナーとし、『ファースト&スロウ』をテーマに藤本由紀夫、畠山直哉、中村政人の三人が出品した[1]
日本政府(農商務省)は第2回の1897年にイタリア政府の要請を受けて工芸作品などを出展しているが、その次の参加は第14回(1924年)まで飛んでいるように、政府や国民は一貫してビエンナーレには関心を示さず、展示スペースは毎回他国のパビリオンを間借りしていた。1930年代以降、日本政府はたびたびイタリア政府からパビリオン建設を打診されており、民間では募金を集めて日本館を建設する運動もあった。しかし建設に踏み切る間もなく世界は第二次大戦に突入した。

1952年、日本政府(外務省)はビエンナーレにはじめて公式参加しているが、伝統美術や近代美術などから折衷的に選んだ大勢の作家を総花的に紹介するのみであり、テーマを練り上げた上で一人または少数の作家を選抜して個展形式で紹介する諸外国に比べると格段に見劣りしたため、まったく反響が得られなかった。1950年代前半、イタリア政府から日本外務省へ、ジャルディーニに空いていた最後のパビリオン用地に日本が1956年までにパビリオンを建設しない場合はパビリオンを欲している他国へ用地を割り当てるという通告がなされた。日本は予算不足を理由に建設を見送るところであったが、1955年、ブリヂストンの会長だった石橋正二郎が外務省の要請に応じて資金を政府に寄付し、外務省予算と合わせて建設費が出せることになった。吉阪隆正の設計による日本館が完成したのは1956年であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AC


ベネチア・ビエンナーレに思う。 大国パビリオンの世相批判 - ダカーポ – The Crossmedia-Magazine
(前篇)http://webdacapo.magazineworld.jp/column/60107/
(後篇)http://webdacapo.magazineworld.jp/column/65675/