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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

316夜『魔の山』トーマス・マン - 松岡正剛の千夜千冊

 マンは自身のペンの力によって祖国ドイツを支援する。1915年の『フリードリッヒと大同盟』、1918年の『非政治的人間の考察』は、安易な反戦思想に対するドイツ伝統文化に立脚した反撃でもあった。戦火に見舞われたヨーロッパが反戦民主主義によってみずからを自浄しようとしていた気運に対し、マンは愛国心にひそむ非政治性をもって立ち向かったのである。フィヒテの魂をもつドイツ人らしい異様な情熱だった。
 けれどもこのマンの反撃はマン自身を傷つけた。戦争に巻きこまれる人間の、また戦争に立ち向かう人間の、この両者の人間によこたわる人間論が欠如していたからだった。
 そこでマンは『ドイツ共和国について』『ゲーテトルストイ』や、『フェリークス・クルルの告白』の新編などを書き、これらを土台にいよいよ「戦争」を背景とした「精神の彷徨」を、「病気」という個人の宿命を通して仕上げることにした。
 それがマンの新たな人間論の枠組を告示する『魔の山』に結晶化することになったのである。

 このようなマンの『魔の山』への壮絶な転換は、文学史では「マンの転回」とよばれている。
 ここではふれないが、この点については、マンの息子で自殺した文学者クラウス・マンが『転回点―マン家の人々』という恐ろしい大著をのこしていて、ぼくはかつてこれを読んで、ヨーロッパにおけるドイツ人という血のものすごさに戦慄したものだ。とうていアジアにおける日本人の比ではない。
 それはそれとして、父トーマス・マンは息子クラウス以上にヨーロッパとドイツを受苦しつづけたのである。

 それなら日本は日本なりに「病気と戦争」を抱えた日清日露の体験を通して「人類意志」を表現してよかったではないかというところだが、そのこともここで書く余裕はないのだが、日本人は諸兄諸姉がよくよく知るとおり、鴎外や漱石の表現を、あるいは晶子や雷鳥の表現のほうを選んだのである。
 唯一、このころに「世界」や「アジア」を認識して受苦しようとしたのは内村鑑三岡倉天心宮崎滔天らの晩年であったろうが、これらの苦悩は当時はまったく理解されてはいなかった。
 おまけに日本の作家たちがマンの転回と『魔の山』を知ったときには、今度は、日本自身が戦争に突入しすぎて、マンのごとく「民族の苦悩から人類の苦悩へ」という転回をもたなかった。そのころの日本人が「民族の苦悩」をもったとすれば、わずかに柳宗悦らの運動をおもいうかべるしかない。

http://1000ya.isis.ne.jp/0316.html