Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20110705#p6)+1

宮台真司さんのツイッターより
宮台真司 (miyadai) - Twitter

一昨日(2011年7月2日)の朝日カルチャー新宿教室での講義での、宮台発言を、ツイートで再現してみます。連投になりますが、ご容赦ください。原発問題にも、まどマギ問題にも、共同体問題にも、ショッピングモール化問題にも、全てに関係する事柄です。それでは開始します!

今後しばらくは、震災後(ポスト震災)に耐えうる作品かどうかが、メディア表現や学問表現の評価軸にならざるを得ないだろう。震災後に耐えうるとはこれ如何に? 一口で言えば「規定されてあることが、自由や希望や未来の前提になる」ということだ。例によって思想史を迂回することで噛み砕く。

ドイツ人間学と米国政治哲学との関係から。震災後、経済格差と別に社会格差=人間関係資本(ソーシャルキャピタル)の格差が問題になった。心底心配してくれる他者がいる人/いない人。心底心配してあげる他者がいる人/いない人。もう一つは、子供の疎開先を見つけられる人/見つけられない人。

だから震災後は当然の如く共同体や絆が鍵概念になる。だが放っておけば「一人は寂しい、だから絆が必要」「一人では生きられない、だから共同体が必要」という話に短絡しかねない。だが、その程度の寂しさや生きにくさであれば、周到に設計された〈システム〉で埋め合せ可能だ。共同体は必然ではない。

もっと論理的な理解へ。助けになるのが哲学的人間学だ。18〜19世紀的人間学は、世界は神が決めたものだとの理解に抗い、世界は人間が決めるものだと理解した。カントは理性の限界を理性で見究め、理性の限界内で社会を運営すべきと考え、ニーチェは世界が人間の意志に応じて現れうるものだと考えた

20世紀人間学への転轍機になるのがシェーラーだ。彼に影響を与えたのが十歳年長の動物学者ユクスキュルだ。ユクスキュルはゾウリムシにはゾウリムシの、イヌにはイヌの、ヒトにはヒトの世界があるとした。つまり動物種ごとの環境(ウムベルト)があるとした。要は、イヌとヒトにとって世界は異なる。

(人間が未規定であるがゆえの)世界の未規定性は当初、宗教的に決定された世界という19世紀的世界観に対し、人間の自由を擁護したと理解された。だがやがて、「未規定な人間」が「未規定な世界」に向かいあえばあらゆる体験や行為が不可能になることが、理解されるようになる。ゲーレンの登場である

彼によれば、未規定な人間は、制度に支えられて、初めて規定された存在(の等価物)となり、そのことで世界を規定可能にできる。動物;[本能による規定性]→世界の規定可能性。人間;[本能による未規定性×制度による規定性]→世界の規定可能性。啓蒙思想的制度観に対する明確な逆転がある

啓蒙思想的制度観;「自由な人間を、制度が制約する」。ゲーレン的世界観;「未規定な人間は、負担免除機能を果たす制度によって自由になる(選択できる)」。制度という変項に、システムを代入するとルーマンになる。つまり「未規定な人間は、負担免除機能を果たすシステムによって自由になる」だ。

19世紀的人間観と20世紀的それとの相違;「未規定性を自由と捉えるか不自由と捉えるか」。20世紀的人間観では「未規定性による不自由は、制度やシステムで埋合されねば前に進めない」。重要;制度やシステムは(1)主体に対し「選べない与件」として現れるが(2)徹底して「恣意的」であること

20世紀的人間学の発想は、社会学とりわけデュルケムに親和的。彼にとって、社会は(1)主体に対して「選べない与件」として現れるが(2)徹底して「恣意的」だ。[シェーラー→ゲーレン]の流れも[19世紀の機能主義的人類学→デュルケム]の流れもそこは共通する。これらの双方がルーマンで合流

“徹底的に「恣意的」な、しかし主体にとって「選べない与件」”がなければ、我々は前に進めないとの発想。米国のコミュタリアン(マッキンタイヤやサンデル)の発想にも継承される。それが典型的に現れるのが、サンデル「白熱教室」で紹介される生物学者マーク・ハウザーの「トロッコ問題」論である。

(1)「暴走トロッコ。行く手に5人。ポイントを切り替えれば5人は助かるが、引込線上の1人が死ぬ。君はポイントを切替るか」→どこでも7割イエス。(2)「暴走トロッコ。行く手に5人。横のデブを落とせばトロッコが止まって5人は助かるが、デブは死ぬ。君はデブを落とすか」→どこでも7割ノー

功利主義帰結主義的合理性:5人より1人死ぬ方がマシ)でもカント的義務論(定言命令:人命を手段として用いるな)でも偏差は説明不能。そこでハウザーが持ち出すのが「情動の越えられない壁」。壁は恣意的だ。デブが老人か若者か、白人か黒人か、男か女かで壁が異なり、異なり方が所属文化で異なる

我々の選択は「常に既に」そうした文化相対的(恣意的)な「情動の越えられない壁」に裏打ちされる。そうした裏打ちがないと、人間はトロッコ問題を前に立ちすくむ。コミュニタリアンが共同体を擁護するのは、寂しいとか生きられない云々でなく、「負荷がかかった自己」を論理的に見出すしかないからだ

ちなみにリバタリアニズムが暗黙の前提としていた“近接性ゆえの「越えられない壁」”を、当てにできなくさせたリベラリズム的なアノミー状況の拡がりゆえに、“「選べない恣意的与件」を「選ぶ」”という逆説的コミットメントが、推奨されるしかない--と見るのがコミュニタリアニズムの実践論的本質

“「恣意的」な、しかし主体にとって「選べない与件」”が不可欠との発想は環境倫理学者キャリコットも同じ。彼は“「恣意的」な、しかし主体にとって「選べない与件」”としての「場所」(マチやムラ)なくして、ヒトの尊厳は保てないとした。単なる選択自由の延長線上には、尊厳の破壊しかありえない

つまり「便利・快適」の延長上に「幸福・尊厳」はない。震災復興では、放って置けば「便利・快適」要求の果てに入替可能なショッピングモール化が進む。北谷アメリカ村や天久通信施設の変換後の沖縄がそうだった。回避するには、ヒトでなく陸前高田や代官山を主体と見て、ヒトをパラサイトと見るべき。

そうすることで初めて「場所」(マチやムラ)が入替不能になり、それゆえヒトは自分を入替不能だと感じられる、つまり尊厳を感じられる。迂回路の思想。主体の功利(選好)に直接応えず迂回することで主体のトータルな「幸福・尊厳」(という功利(選好))が増加するとの発想。むろん功利主義の伝統外

「選べない、恣意的なモノ」を(逆説的だが自覚的に)“引き受ける”ことなくしては、自由も未来も幸いもない−−これが「ポスト東日本大震災の意味論」だ。これは、“「自己の謎」の解決が「世界の謎」の解決だ”あるいは“「承認」されれば全て良し”といった「ポストオウムの意味論」とは違う。

まどマギ」のまどかは「誰からも忘却されること」と引き換えに世界(の基本ルール)を作り変える。だが動機は「絆の擁護」という近接性。セカイ系との鮮やかな対照。「まどマギ」;「絆のある他者」を擁護するべく世界を作り変える。「エヴァ」;「自己の謎」を承認によって解決する(世界そのまま)

「コクリコ坂」の主人公は父性に魅惑された存在。父性とは、あえて引き受ける力。ここでの文脈では“「恣意的」な、しかし主体にとって「選べない与件」”をあえて引き受ける意志。正確にいえば「あえて引き受ける」か「作り変えて自分を抹消するか(英雄譚)」。抹消=奪人称性なくして世界を作れない

双方に共通して、「絆はいいものだ」的な情緒でなく(情緒はむろんあるが)「自分が自分であるための証として絆を擁護する(べく世界を作り変える)」という意志が強調される。つまり“「恣意的」な、しかし主体にとって「選べない与件」”をあえて引き受ける意志が強調される。ポスト震災的な意味論へ

ちなみに宮崎吾朗「コクリコ坂」は「ゲド戦記」とは対照的。「ゲド」は五朗の駿への「反抗期」に過ぎず、だから父殺し(による精神安定)がモチーフになっており、イタかった。対照的に「コクリコ坂」は、「脱反抗期」ともいえる父赦し(=世界を引き受ける父を引受けること)がモチーフになっている。

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◇ n291: 前回のマル激Nコメの冒頭での宮台真司さんの話にはユクスキュル ... - Twitter

前回のマル激Nコメの冒頭での宮台真司さんの話にはユクスキュルの話などもあり、マッピング(と認識)とも関係のある話題になっていると思いました。http://www.youtube.com/watch?v=SYWubgYnW_E&feature=youtu.be&t=2m23s あと、『プレデター』=「耳なし芳一」という話も出てきますが、その詳しい解説も伺いたいものです。

https://twitter.com/n291/status/374812859076603904