Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ボリス・グロイス『デュシャンによるマルクス、あるいは芸術家の2つの身体』 - journal

ボリス・グロイス『デュシャンによるマルクス、あるいは芸術家の2つの身体』2010年 試訳

Boris GROYS, Marx After Duchamp, or The Artist’s Two Bodies, e-flux journal #19 october 2010.

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◇ ハル・フォスター『チャット・ルーム』(2004年) - journal

ハル・フォスターによるリレーショナル・アート批判。ブリオーとオブリストの著作についての書評ではあるのだけれども、具体的な主張について指摘するというよりも、リレーショナル・アートの需要と受容について概観を述べたような文章。ロシア構成主義をはじめとしたアヴァンギャルドとの類似を指摘しつつも、リレーショナル・アートには、アヴァンギャルドが持っていたような反省や批評性が欠如しており、現状肯定的であることを批判している。むしろ、日常性や共同体、出会いといった要素がアートでこれほど特権化されている状況は、いまの社会が抱える諸問題に対する徴候なのではないか、と。

タイトルの「チャット・ルーム」という意味が実はあんまりよくわかってない。人と人の出会いという、リレーショナル・アートが最重要視する要素は、インターネット時代の賜物であるのだけれども、最後の方で述べているように、目的を欠いた出会いそのものをそのように称揚することは、単にフラッシュ・モブImprove Everywhereとか、2chマトリックス・オフみたいな奴)みたいに、集まって面白かったらいいや、という刹那的な運動しかもたらさないんでは? というような指摘に繋がっているのかな、とは思う。

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クレメント・グリーンバーグ 彫刻の近況("Recentness of Sculpture," 1967年) - journal

 ミニマル・アートに関するグリーンバーグによる分析。なぜミニマル・アートは三次元のオブジェに特化したのか? という問いに、平面的なものはあらかた絵画になってしまうため、既存のアートの枠からはみ出るようなものを作ろうとすると、三次元に頼るしかなくなるからであろう、という指摘は、ジャッドのスペシフィック・オブジェクトで実際そういう趣旨のことが言われているので、的を射ているんだろなーと思った。また、ミニマル・アートの作品が持つ意味は、オブジェそのもののなかにあるのではなく、むしろそれを通して発される作家側の観念や、観者のなかに誘発される問いの側にある(それゆえミニマル・アートのオブジェを見ても、絵画を観るような感動は得られない)とゆーまとめに、改めてミニマル・アートからコンセプチュアル・アートへの地続き感を味わうなどした。そんだけ〜…

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◇ クレア・ビショップ イントロダクション――生産者としての観者 - journal

Whitechapel GalleryとMIT Pressが出版している美術に関するテクストのアンソロジーがあるんですが、そのうちビショップが編集したParticipation(参加)についての一冊に付せられたイントロダクションです。観客の参加が特権化されていることに対する批判が、ランシエールを援用しつつ行われているのが面白いと思いました。ランシエールの文章も読んでみないと、なんかほんとにそれでええんかって気もしますが。

要するに、シチュアシオニストによるスペクタクル批判(やその先駆としてのブレヒトアルトー)は、さまざまな方法を通して、スペクタクルに対して受動的な存在である観客に、能動的な主体となることを求める実践だったわけですが、しかし、ランシエールは、観客のあり方を能動的/受動的という二分法で捉えることはよろしくないんでないかと言っている。一見受動的に見えても、解釈(ランシエールは翻訳と言ってるみたいだけど)を行ったりしている時点で、完全に受動的で無力な存在ではありえない。むしろ、そうした状態こそが人間本来の姿なのであって、能動的な主体ばかりを特権的に扱う根拠などない。という話らしい。

その話は面白いし、個人的な関心に合っている(能動性の特権化が孕んでいる問題はほんとに大きいと思うし、現在のコミュニケーション環境からしてやっぱマジで単純に正当化できないと思う)。ので、ランシエールを読んでみようと思った。が、でもその先って、結局「焦るな、待ってろ、あとで効くから」になっちゃうだけだと、説得力あるんか? とも思ってしまう。収められているテクストもちゃんと読んでみよう。ハル・フォスターのやつと、ランシエールと。

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◇ 敵対性と関係性の美学 - journal

 を読んだ(Claire Bishop “Antagonism and Relational Aesthetics,” OCTOBER 110, Fall 2004 pp.51-79)。これだけ読むと、リレーショナル・アートは所詮アート・ワールドのなかでのごっこ遊びであって、ブリオーが目指す政治的な実践と結びつけるためには、もっと積極的にアート・ワールドの外と関わっていくべきである。というわりとふつうの、社会的なアート最高〜みたいな話に思えてしまう。

 けれども、テート・モダンのティノ・セーガルについての記事や、「誰もがアーティストなのか?」と題された講演などを参考にすると、ビショップが問題としているのは、単に「もっとアートは社会とかかわるべきだ」ということでなく、むしろ新自由主義経済に支配された世界のなかで、アートの自律性を問い直そうとしているようにも思える。セーガルの作品に対するコメントというていをとったガーディアン紙の記事は、実際のところ、特にイギリスにおける参加型のアート作品の政府と結んでいる関係についての概観でもある。

 そういうわけで、たまたま買っていたビショップの編集による”Participation,” MIT Press and Whitechapel Gallery, 2006を改めて紐解こうと思った(っていうか、2ヶ月前もこんなこと言ってたな…)。

 アートと政治の関係性というのは歴史を紐解けばいくらでも出てくることではあるにせよ、主にフルクサスから始まって、全世界的な現象として制度批判的な作品が花開いたのが60年代であり、それ以降のアートに関する言説は、どんどんスペクタクル化する作品に対して60年代的なものの影を背負いつづけていた、というふうな前提にたって、ブリオーの関係性の美学は、それを総括しつつ、新しい政治性をアートに託すものだったとビショップはまとめている。

 60年代における実践と90年代以降の実践とのもっとも大きな違いとしては、制度批判の根底にはユートピア的な世界への憧憬があったことが挙げられている。ブリオーはそうした理想を否定し、むしろ「いま、ここ」にいる私たちが、よりよく生きるための方法を模索する方向へと転換した(より幸せな明日を信じるよりも、いま目の前にいる隣人たちとのあり得る関係を開発することが求められている、とブリオーは述べている)。リレーショナル・アートの作品においては、いつもあたたかなコミュニティが、ささやかではかないものであるにせよ、構築される。仲間ができて、いろんな人となかよくなれる。互いに互いを許容する、まさに民主主義的な場であるというのが、ブリオーの主張(これほど単純ではないが)である。

 というのだけれども、こうした関係性の美学の主張に対してビショップは、ほんとうに民主的な場っていうのは、衝突や軋轢もすべて含みこんでこそ成立するはずだと反論している。その論拠となるのが敵対性という概念で、それは不安定な主体が、異質なもの(私ではないもの)との衝突を通して自己同一性を更新していく、というもの。リレーショナル・アートが、私と同じ物を持っている、ということによってコミュニティが形づくられ、対話が生じていく… という図式にのっとっているのに対して、敵対性を含みこんだアート作品は、異質な者同士が緊張関係を保ちつつ、自分や社会を更新していくこととなる。

 対立概念としての関係性の美学と敵対性については、上のような議論が展開されていく。ここで面白いのは、敵対性を含みこむ作品は、観客の参加を必ずしも必要としないという主張だと思う。観客の参加というのは、アートの持つ作者/観者というヒエラルキーを打ち崩すために戦略的に用いられてきた。ボイスが代表されるように、誰もがアーティストでありうる、そのようなアートのあり方こそが民主主義的な世界における理想であり、参加型アートは、それゆえ特権的な立ち位置を歴史の中で得ていた。ビショップはそうした図式に対する批判をしているわけだ。

 すでに作品に対する観者の参加や、作品と観者のインタラクションというのは、それだけで即特権的に良いものとみなされるものではない。作品と観者、あるいは作者と観者、もしくは観者同士のあいだに作りだされている関係性の質をこそ、検討していくべきだという主張は、アートの政治化・社会化によって、かえって全体主義的なイデオロギーに与してしまう危険性に対しての指摘として、考えられるはず。

 リレーショナル・アートを先鋭化させるという話かと思っていたので、むしろその相対化という側面は意外だったな。

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◇ リアル・ジャパネスク−世界の中の日本現代美術 - journal
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◇ T・J・クラーク vs. M・フリード論争について - journal
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◇ プロジェクトからプロトタイプへ(あるいはいかにして作品をつくらずにすますか) - journal
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