Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

Weston Naef, Getty's top photography curator, to retire - latimes.com

http://latimesblogs.latimes.com/culturemonster/2008/12/gettys-top-phot.html


◇ Weston Naef Leaves the Getty - TIME.com
http://entertainment.time.com/2008/12/08/weston-naef-leaves-the-getty/


◇ Weston J. Naef - Information from Answers.com
http://www.answers.com/topic/weston-j-naef


◇ Weston Naef - Beinecke Rare Book & Manuscript Library
http://beinecke.library.yale.edu/programs-events/visiting-fellow/weston-naef

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http://d.hatena.ne.jp/n-291/20130824#p11



◇ コンストラクティッド・フォトグラフィ(構成的写真) - 現代美術用語辞典ver.2.0

コンストラクティッド・フォトグラフィ(構成的写真)
Directorial Photography
「ストレート・フォトグラフィ」とは反対の作り込まれた写真。「ステージド・フォトグラフィ(演じられた写真)」とも呼ばれ、1980年代の写真表現の大きな流れになった。ポール・ゲティ美術館ディレクターのウェストン・ネフによれば、「撮る」写真から「作る」写真への移行である。あらかじめ想定した画面を作るために撮影者は演出家となり、撮影の前段階においてほぼすべての準備が終えられていることが多い。また、美術大学出身の作家が多いことも特徴的である。コンストラクティッド・フォトグラフィの作家が数多く輩出されたのは写真の客観的な記録性への信頼が崩壊していった時期にあたり、彼らは現実と虚構のはざまにおける遊戯性をベースとしながら、現実には存在しないイメージを人工的に作り上げた。例えばシンディ・シャーマンのように演じられた自己像を主題にするものや、ベルナール・フォコンのように人間のモデルやマネキンをジオラマのように配置して人工的に場面を演出するもの、サンディ・スコグランドのように精巧なセットや俳優を配するものなど、作家たちは虚構を現実化するために大掛かりな舞台装置を作り、自らのイメージバンクからさまざまな演出を引き出している。
著者: 小原真史

http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%88%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%EF%BC%88%E6%A7%8B%E6%88%90%E7%9A%84%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%89


◇ 写真のポリフォニー:texte I:POLYPHONY - texture : ueno osamu

[写真のポリフォニー:texte I:POLYPHONY/BT・美術手帖1990年4月号:53-57]
写真のポリフォニー、それは、写真の歴史化・伝統化からの脱却のためのダイヤグラム。写真そのものを差異化させる運動。複数の体系(言語・写真)の対話の不可能性からのみ生じるポリフォニックな対話。つまり、語ることの不可能性の内から語ることを可能にしてしまうような、そんなはざまの漂流に立ち会うこと。

http://park7.wakwak.com/~ueno/archive/90/bt9004polyphony1.html

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◇ RE-RECORDING(1) - 写真専攻領域

バーバラ・キャステン 「構築される『ニューウェーブ』の欲望」 柳本尚規
日本ではあまり関心を持たれなかったが、ニューウェーブの流れはアメリカにあって60年代以来、「コンテンポラリー・フォトグラフィー」の「撮る」写真と「作る」写真の両輪の片方として連綿と続いてき、コンストラクテッド・フォトグラフイーもその流れの中のこんにち目下最先端にある傾向の一つだ。

バーバラ・キャステンは、「ニューウェーブ」といわれる傾向のなかでも、さらに「コンストラクテッド・フォトグラフィー」の代表的写真家として知られている。

「コンストラクテッド・フォトグラフィー」では他にも、S・スコグラントやC・シャーマンといった、いずれも女流の写真家が知られているが、現実を写すことから離れて虚構の世界を撮るという共通点はあるものの、キャステンの作品はこの二人にくらぺても、きわだって抽象的である。

キャステンはまたアティチュードな写真家だという言われ方もする。写真家が写真の歴史に十分に通じた最初の世代になったのが60年代で、この歴史に通じた最初の世代が、「アティチュード」と呼ばれる新しい表現様式をもたらした。「アティチュード」というのは、俗な意味として、頭の切れるとか博学であるとか、しかしそんなことをひけらかさないという感じを込めた言葉なのだそうだが、それはまた過去の表現様式や作品を観察する能力をもさす。キャステンのロシア構成主義バウハウスの思潮へ寄せた作品の質が、そんなふうに呼ばれることになっているのだ。

ところで、キャステンは1936年にシカゴに生まれた。そして1959年にアリゾナ大学を卒業、テキスタイルの仕事についたが、1970年にオークランドにあるカリフォルニア工芸美術大学に入り、美術一般さらにバウハウスの方法を学んだ。71年に最初の個展を開いたが、このときの作品がモホリ=ナギによって生み出された「フォトグラム」(印画紙の上に直接物を置いたりして、物の影を写し取る方法)だった。

モホリ=ナギは1919年、ドイツで開校した建築・美術・写真・エ芸など造形全般にわたった学校「バウハウス」のイデオローグの一人だった。後年ナギはアメリカに渡って、シカゴにニューバウハウスを開。

キャステンはとりわけこのナギの、三次元のオブジェの影を映し出すフォトグラムにも象徴される、光に対するコンセプトに共感した。そしてまた、「空間モデュレーター」と命名された構成作品に共感した。そしてフォトグラム作品を手掛けるうちに、「しかしそれはいつも抽象的になり、幾何学的になり、そして絵画的になることが不満だった。もっと立体的で現実の形を欲しくなって」ゆくのである。

幾何学的構成作品の記録のために使い始めたのが4×5インチサイズのポラロイドフィルムだった。しかし間もなく、写真はキャステンの作品作りの発想源としてなくてはならないものとなった。キャステンが大型の20×24インチサイズのポラロイドカメラや8×10のビューカメラを使うようになるのは1979年のことだった。そしてこの大型カメラによる作品が、脚光を浴びるのが、1982年のニューヨークで開いた個展である。

キャステンはブラスティッタや石膏などさまざまな素材を使って形あるものを作るが、中でも特に重要なのが鏡である。鏡は冷たい空間を作り出すが、一方で迷宮へとイメージを誘う入口であって、キャステンの作品にそこはかとない甘さをたたえることとなるキー・ワードである。

さまぎまなフィルターを通過した照明光は石膏や鏡の無彩色の立体を彩り、モホリ=ナギの空間モデュレーターの世界を再現する。

興味深いのは時代を隔てて再現されるコンセプトの内容である。ナギのには、機械時代への賛歌と合理性を求める精神がみなぎり、しかし一方で時代がもたらすペシミステイックな心情が反映している。しかしキャステンのにはそれがない。遊びの感覚が濃密である。

1986年に東京で開かれた個展で、私はいっそうこのことを印象づけられたことだ。そして、こうした過去の表現様式や作品を、機知やパロディの感覚で観察し、過去の表現への郷愁の身振りとともに表すこと、これこそがアティチュードな感覚の典型であるといえるのだろうと思ったものだ。

しかしそれにしてもキャステンのこだわりはますますエスカレートしているように見える。例えば、ホイットニー・ミュージアムを舞台にした制作において、彼女は8人のスタッフと10時間余の時間をかけて一つのイメージを撮りおさめた。巨大な三角の鏡が天井の光を映し出し、フィルターをまとった光がそれにまつわりつき、その関係を決定するまでにおよそ5時間。この情熱には、過去の表現を自己流に再演することが一義的となった、ということはつまり表現様式そのものを写真の内容の要素と見なす「ニューウェーブ」の確信がうかがえる。

キャステンの欲望はさらにひろがる。彼女はいま、より大きなスケールのオプティカル・ファンタジーの演出がしたい、という。

(「すばる」1989年9月号所収)

http://photograph.zokei.ac.jp/speaks/91.html
内容については改めて要検証。


◇ RE-RECORDING(4) - 写真専攻領域

「サンディ・スコグランド−『複製』解釈を超えて実物大との『関係』へ」 柳本尚規
sandy

「私の作品は、感情に訴えかけてくる目に見えぬ存在を具現化したものだ。ふだんの習慣化した平凡な日常生活は、とりわけ私にとっては魅惑的な素材である。イラストレーターや映画監督のように、じっさいに目に見えることとそれが触発するイメージを同じ水準で操作するのはじつに楽しい。私はひとつ一つの日常生活のシーンを、触発されたイメージ(感情に訴えかけてくる存在)を形にした手作りのモノを加えて再現することによって、もうひとつの解釈を表そうと思っている」、とこれはスコグランドの言葉。

先だっては渋谷のパルコギャラリーでスコグランドの展覧会があった。ここ10年来の代表作とともに、インスタレーションといわれる原寸の「装置」も一つセットされ、この写真家の全体がまとめて見られるといういい機会だった。

その展覧会で、私はちょっと変わった感覚を実感した。展示された作品の大きさのせいだとも思うけれども、それは「実物大の写真」を見ているという感覚だ。これは、写真のことを世界を縮小して見る技術だと思う習慣的感覚にとって、ちょっとした体験である。

この縮小の技術というのは、ベンヤミンがいった複製技術の形成とともにつくられてきた現代人の芸術感覚、つまり人が複製技術作品を使いこなすのに必要な作品支配力をもたせてくれる技術という意味である。

だから「実物大の写真」を見ている感覚というのは、複製技術形成以前の作品と鑑賞者の関係に引き戻されたような感覚をもってということになる。これは要するに鑑賞者にしてみれば、「解釈」より「関係」において作品との間を成り立たせるということになる。「解釈」は自由にさせてくれないが、「関係」は自由なのだ。縮小という、ある一つの視点の固定から、自由に見られる関係への転換。

スコグランドはそうした関係をつくるために、「縮小の」とは見られるおそれのない作品の大きさを設定しているのではないか・・・・。

「実物大の写真」ではスコグランドの意思の形跡を細かくたどることができる。だから本人同様に楽しい。なにしろ全体が緻密なのだ。(ということからすれば、スコグランドの写真は小さな画面では「解釈」の方に引き込まれやすくなるかもしれない)。そして同時に、スコグランドのイメージが、いかにも日常の小さな感覚から派生しているのだと教えられて引き込まれてゆくのである。

サンディ・スコグランドは、1980年代に台頭したアメリカのニュー・ウエーブを代表する写真家である。

彼女が知られるようになったのは、1981年の個展での「金魚の復讐」と「放射性の猫」という二つの作品によってだ。その徹底した虚構と遊戯性は、あとに多くの後継者や亜流を生み出したから、シンディ・シャーマンバーバラ・カステンとともに、80年代ニュー・ウエーブの先駆者といわれるようになった。

彼女は1946年、ボストンの生まれ。他のニュー・ウエーブの作家たちと同様、大学では美術を学んだ。時代からしても、必要最小限の表現によった、ミニマル・アートや、言語的な内容に作品を従わせるコンセプチュアル・アートの影響を色濃く受けた世代だ。じっさい彼女は学生時代にミニマル・アートの彫刻も制作した。しかし次に彼女はドキュメンタリー・フィルムの制作に手を染めるのである。

そういう前歴をもつスコグランドの作品はミニマル・アートの彫刻の形式と、ドキュメンタリー・フィルムの形式をミックスして生み出されたものだといわれる。その意味では、自己の体験をつみ重ねるじつに着実な作家ではある。

ところで「メイビー・ベイビース」は、先の二つの作品のあとの個展(1983年)でただ一点だけ発表された作品だ。

そこには、撮影のための装置、つまり原寸大のインスタレーションも表わされた。赤ん坊だけは「原寸」の約二倍の大きさで配置されていたそうだ。

しかしその作品は、前二作とは少し違って辛い批評も浴びることになったという。なぜかというと、前作の徹底した遊戯性から、寓意が強くなりすぎたせいである。それはいかにも重い寓意だと、前二作と異なった作風にブーイングがあったというものだろう。しかしその後ほまた元に戻った・・・・。

スコグランドには、こうした「インスタレーション・シリーズ」と、もうひとつ「トゥルー・フィクション」のシリーズがある。これはシリアスなモノクロ写真を組み合わせて着色した構成写真で、ダダイストたちのフォトモンタージュ作品を思わせるシリーズだ。

それはあたかも、「実物大写真」シリーズによって、自由な感情の気持ちの往来を図り、もう一つのシリーズによっては作家個人のコンセプトを明確に理解させようとしているかのように、つまり、アメとムチの両具をもって自己表現を広めようとしているかのようだけれども、だとしても、その広めよう、すなわち伝えようという率直な意思が、スコグランドの写真から「難解さ」を遠ざけている。私たちはいつも作品にあらわれる作家の意思の流れを通して、作品の意味を理解しようとするものだからである。

(「すばる」1990年11月号所収)

http://photograph.zokei.ac.jp/speaks/2305.html
内容については改めて要検証。

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◇ Directorial photography | Reinier van Houten – Photography
http://www.reiniervanhouten.com/?p=1391


◇ Photography: A Cultural History - Mary Warner Marien - Google ブックス
http://books.google.co.jp/books?id=NsolmLbz8igC&pg=SA7-PA120&lpg=SA7-PA120&dq=%22Directorial+Photography%22&source=bl&ots=eYPrDMGVuI&sig=A45jCulaK0iI9DDyqakfAbu9NTA&hl=ja&sa=X&ei=RzX5UtyuBsiXkwWa-oGgDA&ved=0CEYQ6AEwBg#v=onepage&q=%22Directorial%20Photography%22&f=false

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◇ 写真における「ニューカラー」「コンストラクテッド・フォト」という言葉 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/240039


http://togetter.com/li/403942