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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

政治の美学 権力と表象 :田中純 - 高橋教授の書評空間

私が田中の仕事に注目してきた大きな理由の一つは、田中が表象の問題をつねに「表象されたもの」と「表象されえなかったもの」のあいだの裂け目・亀裂を意識しながら扱っている点であった。「表象されえなかったもの」とは、ある実定性を伴なって表象が成立する瞬間に消し去られてしまう表象の根源であり起源を意味している。この表象の根源=起源は「表象されたもの」が成立した瞬間消去されてしまうがゆえに、「表象されたもの」の世界においては――それは私たちが通常受容している日常世界とほぼ重なりあう――つねに痕跡として事後的にしか認識されえないものである。だがそれは同時に、ある表象の水位が形づくられる際に必ず働いているいわば表象生産の原動力というべきものなのだ。つまり「表象さえなかったもの」とは表象の成立準位から消えている表象生産の「力」に他ならないのだ。したがって表象産出の過程にはつねに産出された表象体とこの「力」のあいだ関係が、しかもそのうちに矛盾や相克を孕む屈曲した関係が存在することになる。表象体はこの「力」を否定し消し去ろうとし、「力」はそうした表象体の抑圧を押し破って噴出しようとするからである。そしてこの矛盾・相克が「表象されたもの」と「表象されなかったもの」のあいだに裂け目・亀裂をもたらすのである。それはおそらく別な角度からいうと次のように言い換えることが出来るだろう。すなわち表象体とは表象を産出する「力」が表象の産出過程のなかで別な何ものか、より正確に言えば、表象体の産出に相応しい別な「力」の形に置き換えられることによってはじめて成立可能となるのだ、というようにである。それは表象の持つ実定的な具体性、あるいはそれを支える秩序や意味上の文脈を可能にする「力」に他ならない。そして私たちはこの「力」をこそ「権力」とよぶのである。


このとき「権力」はおそらく二重の役割を担うことになる。一つはすでに触れた「表象されたもの」と「表象されなかったもの」のあいだの亀裂を充填しつつなめらかな表象空間の表層を形づくるという役割であり、もう一つは、そうした表象空間を社会/歴史空間へと連続的につなげてゆく役割である。表象空間のなめらかな表層が形づくられる過程は、そのまま社会/歴史空間の実定性が形づくられる過程と重なりあうからである。だが、というべきか、だからこそというべきか、権力の作用によって秩序化され可視化される表象と社会/歴史空間の複合体としての実定性の水位のうちには、つねにその実定性を突き破ろうとする「力」の蠢動が隠されているのを忘れてはならない。
 こうした「力」の準位は、実定性が揺らぎ始めると、いわば亀裂を覆い隠していた綴じ目を押し開くようにして表層へとせり出してくる。それは具体的には社会/歴史空間が「危機」と呼ばれる状況に陥ったときである。そしてそうした「危機」の瞬間、消し去られた「力」が突然「権力」へと回帰してくるのである。本書で田中が問題にしようとしているのは、まさにそうした「危機」の瞬間に回帰してくる「力」の様相であり、「力」の回帰によってもたらされる表象空間のねじれ・屈曲の様相に他ならない。

http://prof-takahashi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_2905.html