◇ 日比谷安希子「ID_写されたわたし」(横浜市所蔵カメラ写真コレクション展)テキスト.rtf - Google ドライブ
証拠としての写真
写真の迫真性が次第に社会に認められていくと、写真は科学的な記録装置として公的なかたちでも採用されるようになる。19世紀中頃は、列強諸国においてオリエントを舞台とした植民地主義が大きく台頭した。オリエントとの出会いによって、写真家と写真を享受する自国の人々は、科学的に観察・分析しようとするまなざしと、新しく物珍しいものを追い求めようとする欲望のまなざしを手に入れた。この二つの欲望からなる、人物を標本化するものの見方は、アメリカの西部開拓に代表される未踏の自然や先住民へのアプローチ、あるいは社会の内部におけるマイノリティ理解にも反映されている。ウィリアム・ヘンリー・ジャクソンが米国内務省国土地質学調査に同行して撮影した、ネイティヴ・アメリカンのポートレイトは、自分とは異なる民族を冷静に観察するまなざしが感じられる。
一方で、身体的特徴から個人の身元を特定するためにも、写真が用いられるようになる。1860年代頃から世界各地の警察で、累犯者を確認するために、犯罪者のデータとして写真が活用されるようになった。1871年のパリ・コミューンの後も、パリ警視庁によって容疑者たちの写真が撮影されている。(4)しかし、写真に写された個人の容貌は、表情や髪型、皺や傷の有無など身体的特徴の変化によって、数ヶ月を経ただけで照合することが難しいことがわかり、1890年代にフランスで指紋認証が導入されると、次第に個人の最終的な身元照合ツールの座を明け渡すことになる。(5)身分証明の現場で、これまで客観性のあるメディアと信じられて来た写真は、その客観性の不完全さを実証することになったのである。
https://docs.google.com/document/d/1kHzYUfAeyRUSVLCu4HPteVZ-JnXaEyDL9h6ZWOvygGU/edit
◇ 第3回 「写真」への道(後編) - のいえ の じゃらんじゃらん
ナダールなどの例外を除けば写真が商業用肖像製造装置と見られていた時代にも、記録の手段として用いた少数の写真家がいた。名前の現在まで残っている一人にイギリスのロジャー・フェントン(1819-69)がいる。彼はクリミア戦争(1855)に従軍したが、当時の写真術では長時間露光が必要なのと撮影後長くおけない感光材料のため、有蓋馬車の移動暗室で処理をしながらの苦闘の撮影行であったと思われる。撮影した約350枚の写真のうち49枚がロイヤル写真協会に現存している。アメリカの南北戦争(1861)においてはマシュー・ブラディー(1823-96)が、19名のスタッフと共に北軍に従軍している。やはり荷馬車の暗室と、全紙版カメラを持っての撮影行である。もちろん実戦場面を撮れるはずはなく、後方陣地風景、会議、戦場跡の記録が主であった。
では、いわゆるニュース写真はいつごろ出現したのであろうか。携帯型カメラとフィルムが普及する20世紀になってからではない。1851年、リチャード・ビアードが撮影し、「ロンドンの労働、ロンドンの貧民たち」という社会研究に使われた写真が最初のニュース写真と思われる。これらのダゲレオタイプによる写真は木版印刷されている。その技術的困難さからこの分野の発展は遅かったが、1871年のパリ・コミューンは盛んに撮影されている。このとき、倒されたナポレオン一世像の横で撮影された革命派の人々が、それを証拠として後に危険な立場に置かれた。このことから写真が証拠・証明として認知されはじめたことがわかる。
写真のグラデーションとトーンを再現する印刷技術が実用になったのは1882年頃で、それ以降、ニュース写真とマス・コミュニケーションは密接な関連を持ち続けることとなる。
http://www.geocities.jp/tkatum/Photo/article/eye/03/eye.html
◇ ペドロ・コスタ特別講義 - Contre Champ
http://hj3s-kzu.hatenablog.com/search?q=%E3%83%9A%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E7%89%B9%E5%88%A5%E8%AC%9B%E7%BE%A9