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アレホ・カルペンティエル - Wikipedia

アレホ・カルペンティエル(アレッホ・カルペンティエール、Alejo Carpentier y Valmont, 1904年12月26日 - 1980年4月24日)はキューバのジャーナリスト、小説家、音楽評論家。20世紀のラテンアメリカ文学に大きな影響を与えた。

1904年、スイスのローザンヌに生まれる(長い間、彼の出生直後に転居したハバナ生まれと思われていたが、彼の死後に出生証明書がスイスで発見された)。母はロシア語の教授、父はフランスの建築家だった。12歳時にパリへ転居し、音楽理論に傾倒した。キューバ帰国後はハバナ大学で建築学を学んだ。やがて左翼ジャーナリストになり、独裁者ヘラルド・マチャードを非難し若干の刑期を過ごす。
1928年、フランス亡命後は、アンドレ・ブルトンポール・エリュアールルイ・アラゴンジャック・プレヴェール、アントナン・アルトーシュールレアリスムの作家たちと交友。1933年、処女作『エクエ・ヤンバ・オ』を刊行。フランス滞在時にスペインを何度か訪問し、バロックに対する興味を高めた。帰国後はジャーナリストとして活躍。ブードゥー教の儀式に出席し、アフロ・キューバン主義に関心を持った。パリ滞在中には画家の藤田嗣治と親交を結び、1931年に藤田夫妻をキューバに招待。その際、藤田は盗難に会うが、作品を描き、チャリティーを行なって旅費を稼いだといわれている。
1943年に演出家ルイ・ジューヴェとともにハイチを訪れ、19世紀の黒人王アンリ・クリストフの建てたシタデル・ラ・フェリエールの砦とサン=スーシ宮殿を見学。このときオスヴァルト・シュペングラーの著作を読み、その循環史観から『この世の王国』(1949年)の着想を得た。1945年からフルヘンシオ・バティスタ独裁政権の干渉を受けてベネズエラに在住。キューバ革命後の1959年に帰国し、フィデル・カストロ政権の元、文化活動のリーダーとして大御所的存在となる。1968年以降、文化担当官としてパリに在住。1978年にはスペイン語圏最高の文学賞であるセルバンテス賞を受賞。1980年4月24日にパリで逝去。2000年にキューバで彼の名を冠したカルペンティエル文学賞が創設された。

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◇ アレホ・カルペンティエル (1904-1980) - キューバ研究室 Sala de Estudio sobre Cuba

 小説『光の世紀』、『この世の王国』などで知られる、キューバの代表的な作家、アレホ・カルペンティエルを紹介しよう。


 今世紀に入り、キューバは、90年代に苦しんだ国内の経済危機も回復する中、出版活動も回復のきざしを見せ始め、カルペンティエルの作品が、再び注目を集めている。2004年には、生誕100周年の記念シンポ、会議、再出版、テレビでの特集など行われ、カルペンティエルは、20世紀キューバ文学の独創的かつ普遍的で、「驚異的現実」(アメリカ大陸には驚異的なものと現実的なものが混在し、共存しているという理念)の創造者として評価された。同年11月には、キューバの芸術機関である「カサ・デ・アメリカス」により国際会議「アレホ・カルペンティエルの世紀」が開催された。


 カルペンティエルは、1904年12月26日ハバナでフランス人の建築家の父とキューバ人の母の間に生まれた。1912年勉学のためフランスに渡り、9年後キューバに帰国、ハバナ大学で建築学を学んだ。しかし、その後ジャーナリズムに身を投じ、時事問題、文化問題に健筆を振るった。1943年から59年までキューバでの弾圧を避けてベネズエラに亡命。代表的な作品で日本語に翻訳されているものは下記の通りである。


 1978年にはスペイン語圏最高の文学賞であるセルバンテス文学賞を受賞し、1980年4月24日パリで死去した。彼は、「魔術的リアリズム」を駆使し、アルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘス、メキシコのフアン・ルルホと並んで20世紀のラテンアメリカ文学の刷新に貢献したもっとも著名な作家と見なされている。

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