Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

「ドイチュラントビルダー」展 - 現代美術用語辞典ver.2.0

「ドイチュラントビルダー」展
“Deutschlandbilder”(独)
1997年9月7日から翌年1月11日まで、ベルリンのマルティン・グロピウス・バウにおいて開催された約500点からなる20世紀「ドイツ」美術の大展覧会。監修はエックハルト・ギレン、キュレーターはギレンおよびルドルフ・ツヴィルナーが務めた。展覧会の副題は「分断された国の芸術」であるが、東西ドイツ分断の始まりをナチスが政権を獲得した33年と定め、M・ベックマンの小さなブロンズ彫刻《暗闇の中の男》(1934)が展示会場の導入地点に置かれた。また、展覧会評に「常に既に見てきた作品を新たに見て学ぶ稀な展覧会」と書いた『ツァイト』誌に従えば、展示方法は芸術史的な区分にもとづいたものではなかった。代わりに導入されたのは、第一次世界大戦従軍者(O・ディクスら)、ヴァイマル時代(P・クレー、O・シュレンマーら)、強制収容所の犠牲者(F・ヌスバウム、O・フロイントリッヒら)、軍事および武装ナチ親衛隊世代(J・ボイスら)、戦争下に生まれた子供たち、戦後世代、分断された国の住民たち、という視座であった。出展作家は90組を越えたが、ボイス以降の世代では、A・キーファーやR・ムハなど西側ドイツに生まれた作家に加え、幼少時に家族とともにアメリカ合衆国に亡命したユダヤ系作家のE・ヘス、戦後西ドイツからアメリカ合衆国に渡り成功をおさめたH・ハーケ、東ドイツから西ドイツに移住して活躍していたS・ポルケ、G・リヒター、G・バゼリッツ、A・R・ペンクらが参加した。また、ボイスと同世代のB・ハイジグ、W・マットイヤーなど、東ドイツにおいて重要な絵画動向であったライプツィヒ派の作品も展示された。
著者: 長チノリ

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ライプツィヒ造形美術館 | Leipzig Tourismus und Marketing GmbH - ライプツィヒ観光局 | Leipzig Tourismus und Marketing GmbH

ライプツィヒ造形美術館には500年にわたるヨーロッパ美術史が集約されています。2004年に完成した斬新な建物の内部には4階にわたって柔らかな日の光が差し込み、その贅沢な空間に様々な時代・芸術家・テーマの作品が並びます。商業や学問の中心地として発展したライプツィヒでは芸術に造詣の深い実業家や知識人たちが様々な美術品を収集し、それらが市に寄贈され、現在のコレクションが形成されてゆきました。その所蔵品は中世から現代まで、絵画3,000点以上・彫刻約850点・グラフィックアート作品55,000点以上にのぼり、ドイツでも最古・最大級の市民コレクションとなっています。常設展に加え、多彩な特別展にも多くの美術ファンが集まります。


常設展ではルーカス・クラーナハ(父)によるヴァルトブルク城閉居時代のルターの肖像『騎士イェルクに扮したマルティン・ルター』(1521)、フランス・ハルス『ムラート』(1627)、カスパー・ダヴィット・フリードリヒ『人生の諸段階』(1835)、ポール・ドラローシュ『フォンテーヌブローのナポレオン』(1845)、アルノルト・ベックリンの連作の一つ『死の島』(1886)、マックス・クリンガーの伝説的作品『ベートーヴェン像』(1885-1902)、オットー・ミュラー『恋人たち』(1919)などといった名作を見ることができ、また東ドイツ時代に国民の苦しみを代弁する役割を担ってきた「ライプツィヒ派」の諸作品も充実しています。


ひときわ目を引くベートーヴェン像は、美術史上の音楽を題材とした作品の傑作に数えられます。ライプツィヒ出身の彫刻家マックス・クリンガー(1857〜1920)は楽聖ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを古代神になぞらえ、7年の歳月を費やしてその姿を完成させました。そして1902年にウィーン分離派会館にてグスタフ・クリムトの大作『ベートーヴェン・フリーズ』と隣り合う形で初めて公開され、社会的反響を呼び起こします。その存在感ある造形は広く知られるようになり、1918年6月1日の徳島県・坂東俘虜収容所におけるベートーヴェン交響曲第9番(第九)』日本初演時のプログラムの表紙にも当像がデザインされたほどです。クリンガーのベートーヴェン像は、日独交流の歴史にもその姿を残しています。

ライプツィヒ物知り事典11
ライプツィヒ派・新ライプツィヒ
Leipziger Schule - Neue Leipziger Schule


ライプツィヒ派(Leipziger Schule)」は東ドイツ美術界における絵画の一派。ライプツィヒの視覚装丁芸術大学(Hochschule für Grafik und Buchkunst)(*注)を中心に発展したためこの名がある。


(*注)「視覚芸術アカデミー」とする訳例もあるが、ドイツ語の「アカデミー(Akademie)」という呼称は(英語の"academy"とは異なり)学士院・学術団体としての意味合いが強い。同校は国立の専門大学として視覚芸術・装丁芸術の高等教育を行う機関であるため、ここでは「視覚装丁芸術大学」と表記する。


東ドイツことドイツ民主共和国(1949〜1990年)では芸術・文化さえも国家によって政治的に操られ、音楽でも文学でも絵画でも、労働者を賛美するような題材ばかりが奨励された。このようなプロパガンダ芸術は国民に受け入れられるはずもなく、政治主導の美術潮流は国民の嗜好から乖離するばかりだった。


そのような中で視覚装丁芸術大学教授のベルンハルト・ハイズィヒ(Bernhard Heisig)は、1964年にヴォルフガング・マットイヤー(Wolfgang Mattheuer)、ヴェルナー・テュプケ(Werner Tübke)らと共に絵画グループを結成した。この一派はプロパガンダ美術とは一線を画した作品を次々と発表し、次第に彼らは「ライプツィヒ派」として国民に人気となる。これらの画家たちは反政治色を直接的に表現するのではなく、陰鬱な、そして奇抜な色使いとテーマを用いた作品を描き、国民たちはこれを東ドイツ社会における人々の不自由を代弁するものと理解した。政治的規制によって国民の味わう苦しみが一切報道されない東ドイツにおいて、ライプツィヒ派の絵画は民衆の苦悩を表現する?代替メディア?として熱狂的に支持されるようになった。東ドイツにおいて絵画とは画家のためだけでなく、民衆にとっても重要な表現手段として機能してゆく。これは1989年にライプツィヒから始まった平和革命とも無関係ではない。政治批判の許されない東ドイツにおいて、国民とりわけライプツィヒ市民たちは、美術作品の中に社会主義体制の矛盾を感じ取り、これに立ち向かう意志を学び取ったのだった。


美術作品は東西ドイツ統一によってこのような役割は担わなくなったものの、視覚装丁芸術大学を中心とする美術の伝統は受け継がれ、現在ここでは「新ライプツィヒ派(Neue Leipziger Schule)」が新たな興隆を見せている。一派の旗手であるネオ・ラオホ(Neo Rauch)、マティアス・ヴァイシャー(Matthias Weischer)らの表現する超現実的な画風は、東ドイツライプツィヒ派の伝統を受け継いでいるからこそ、我々に多くを訴える。新ライプツィヒ派の多くは市街西部の旧紡績工場シュピネライにアトリエを構え、それゆえシュピネライはヨーロッパ有数の現代美術の発信地となり、さらなる成長を続けている。

http://www.leipzig.travel/jp/___1379.html


ライプツィヒ - Wikipedia

第二次大戦による惨禍の後、ライプツィヒのある中部ドイツはソ連占領区となり、1949年にそれがドイツ民主共和国東ドイツ)となった。社会主義化したこの時代にはドレスデンカール・マルクス・シュタット(現・ケムニッツ)と共に東ドイツの主要工業地域を形成した。メッセは社会主義政権下でも継続され、西側世界との貴重な窓口となった。東ドイツ時代末期の1989年にはニコライ教会での集会を発端とする「月曜デモ」と呼ばれる反体制運動が起き、これが東ドイツにおける民主化運動の出発点となった。当地の市民蜂起に始まり、ベルリンの壁崩壊、そして東西ドイツが犠牲者を出すことなく統一された一連の出来事は、現在東欧革命の一部として「東ドイツ平和革命(Friedliche Revolution)」と呼ばれる。
ドイツ再統一後には街並みの修復や再開発、芸術・文化面の再興などで再び急速な変遷を遂げ、現在のドイツ中部圏を代表する文化・経済都市となっている。ポルシェやBMWの開発を担う新工場の建設や、アマゾンやヤマザキマザックによる拠点開設、そしてDHLのヨーロッパ・ハブのブリュッセルから当地への移転といった企業進出に加え、音楽に代表される文化的環境(後述)を生かした文化・創造産業も盛んである。
2015年には史料初出から1000年目を迎え、千年史記念祭の開催が予定されている。

美術
当地における印刷工芸の発達、そして商人たちによる美術品の収集・芸術活動の促進によって、市民による膨大な美術コレクションが形成されていった。これらは現在ライプツィヒ造形美術館やグラッシィ工芸美術館(Grassimuseum für Angewandte Kunst)に収められている。1764年には美術院も創設され、若きゲーテライプツィヒ大学に通う傍ら、ここで美術の手ほどきを受けた。美術院の後身である視覚装丁芸術大学(Hochschule für Grafik und Buchkunst)は現在もドイツ有数の美術学校として美術界をリードしている。東ドイツ時代には社会主義政権を暗に批判する絵画の一派「ライプツィヒ派(Leipziger Schule)」が民衆に大きな影響を与え、ライプツィヒから反体制の市民蜂起が起きる一つの遠因となった。現在は画家ネオ・ラオホ(Neo Rauch, 1960〜)に代表されるこの伝統を受け継いだ「新ライプツィヒ派(Neue Leipziger Schule)」が隆盛を迎えている。市街西部には多くの現代芸術家たちが居を構える旧紡績工場シュピネライがある。書籍印刷の歴史と相まってグラフィック・アートも盛んである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%92