Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

『映画とは何か』アンドレ・バザン - 現代美術用語辞典ver.2.0

フランスの映画批評家アンドレ・バザンの批評集。戦中に映画批評家としての活動を開始したバザンは、1951年に映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の創刊に関わり、58年に亡くなるまで同誌を率いた。ヌーヴェル・ヴァーグ映画作家の「精神的父親」として知られる。本書には、15年の批評活動のなかで書かれた2,600に及ぶ記事のうち、加筆修正を経た64本が収められている(現在フランス語で入手可能な選集版はうち27本のみ)。その映画論は、映画の基盤である写真についての考察を出発点とする。バザンは「写真映像の存在論」(1945)で、写真の独自性は、人間の介入なしに自動的に生み出されることから来る「本質的な客観性」にあると主張(この論文は写真のインデックス性をめぐる議論でもしばしば取り上げられる)。映画はそうした写真の客観性を時間のなかで完成させたものであって、映画の美学は現実を明らかにするリアリズムであるべきだとした。それゆえバザンは、現実に意味を押しつけるモンタージュよりも、現実のもつ「曖昧さ」を尊重するワンシーン=ワンショットやディープフォーカスにもとづくスタイルを評価した(O・ウェルズ、J・ルノワール)。R・ロッセリーニらによるイタリアのネオレアリズモの運動は、バザンにとって、そうした「現実の美学」を体現するものであった。こうして映画独自の美学を規定する一方で、バザンは偏狭な映画至上主義に陥ることなく、映画と他の諸芸術(文学、演劇、絵画)との「美学的共生」についても積極的に論じ、映画の「不純さ」を擁護した。『ピカソ 天才の秘密』などを論じた美術映画論は美術の文脈からも興味深いものであろう。70年代にはイデオロギー批判の標的となることもあったが、バザンの映画論はたえず映画作家映画批評家を刺激し続け、没後50年を経たいまもなおその輝きを失っていない。
著者: 角井誠

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◇ 『映画における意味作用に関する試論 映画記号学の基本問題』クリスチャン・メッツ - 現代美術用語辞典ver.2.0

『映画における意味作用に関する試論 映画記号学の基本問題』クリスチャン・メッツ
Essai sur la signification au cinéma(仏), Christian Metz
フランスの映画理論家クリスチャン・メッツの初期の代表的著作。1964年から68年に書かれた論文を収める。それらはR・バルトの試みを引き継ぎ、映画に構造言語学の概念を導入することで「映画記号学」を創始しようとするものであった。メッツ以前にも映画を言語活動とみなそうとする試みは存在していたが、その多くは映画を「言語(ラング)」と同一視して、映像を語に、その連なりを文に対応させようとする類いのものであった。これに対してメッツは64年の「映画 言語か言語活動か」で、映画は音素にも語にも分節できず「二重分節」を欠いているのであって、厳密な意味での「言語」ではなく、「言語なき言語活動(ラングなきランガージュ)」であるというテーゼを提出した。映像はそれ自体がすでにひとつないし複数の文なのであって、それらが集まってより大きな集合体が構成される。こうして映画の記号学は、映像の形態論ではなく連辞論を探求することになる。それは映像の配列を八つのカテゴリーに分類した、名高い「大連辞関係」へと結実し、ジャック・ロジェの『アデュー・フィリピーヌ』(1962)の分析に適用されている。こうした試みは『言語活動と映画』(1971)や『映画記号学の諸問題』(1972)へと引き継がれる。その後メッツは映画の精神分析や映画における言表行為の問題にも取り組んだ。G・ドゥルーズらによって批判されることもあったが、メッツの著作はフランス本国のみならず世界の映画研究に大きな影響を与え、その基礎となっている。
著者: 角井誠

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◇ 『シネマ』ジル・ドゥルーズ - 現代美術用語辞典ver.2.0

『シネマ』ジル・ドゥルーズ
Cinéma(仏), Gilles Deleuze
1983年と85年に出版された、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズによる二巻からなる映画論。ドゥルーズは、H・ベルクソンの『物質と記憶』やCh・S・パースの記号論を主な参照項とすることによって、Ch・メッツに代表されるような映画を言語や言語活動との類比においてとらえる言語学的な映画論から距離を取って、映画の独自性にもとづく「イメージと記号の分類」を試みた。映画のイメージはまず、不動の切断面の連続としてではなく、「持続の動的な切断面」すなわち「運動イメージ」としてとらえ直される。この運動イメージそのものは中心なき宇宙をなしているが、脳や身体という「不確定の中心」と結びつくことで、「知覚イメージ」、「感情イメージ」、「行動イメージ」という三つの主要な変種へと区別され、それらのイメージは行動と反応からなる「感覚運動図式」によって連鎖されることになる。しかし、ネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグなどの戦後の現代映画とともに、そうした感覚運動図式では処理できない、異常な事態や凡庸な日常が現われ(「純粋に光学的・聴覚的な状況」)、人物たちは行動する者から「見る者」へと変貌する。こうして感覚運動的な延長を中断されたイメージは、過去の潜在的イメージと関係を結び、両者が識別不可能になる点において「結晶イメージ」を構成する。時間はもはや運動を介して間接的に提示されるのでなく、それ自体を直接的に提示するに至るのである。時間イメージはまた、世界の耐えがたさを前にした思考の不可能性から出発して、この世界への信頼を取り戻そうとする試みであるとされた。こうしてドゥルーズの議論は思考、身体、脳、政治の問題へと広がってゆく。それゆえ本書は映画論であるのみならず、後期ドゥルーズの哲学的主著でもある。
著者: 角井誠

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◇ スタンリー・カヴェル『眼に映る世界 映画の存在論についての考察』 - 現代美術用語辞典ver.2.0

スタンリー・カヴェル『眼に映る世界 映画の存在論についての考察』
The World Viewed: Reflections on the Ontology of Film, Stanley Cavell
1971年に出版された、アメリカの哲学者スタンリー・カヴェルによる映画論。79年に新たな序文と補遺を付した増補版が出版された。ジル・ドゥルーズの『シネマ』と双璧をなす、哲学者による映画論の古典。カヴェルは、アンドレ・バザンやエルヴィン・パノフスキーから映画のメディウムは写真的なものであるという考えを引き継ぎつつ、そこにスクリーンへの投影という契機を付け加えた。映画では、作り手の介入なしに世界が自動的に複製され(第一の自動性)、そうして複製された世界がスクリーン上で観客の関与なしにみずからを展示してゆく(第二の自動性)。映画メディウムの物質的基盤はすなわち「自動的な世界の投影の連続」なのである。しかしカヴェルの議論は、メディウムの物質的基盤とその美学的可能性とを短絡させる物質還元主義的なメディウム論とは一線を画するものであった。メディウムの可能性は、物質的基盤によってアプリオリに規定されるものではなく(絵の具や写真について考えるだけではそれらの可能性を知ることはできない)、個々の芸術的発見(形式やジャンル、類型、テクニックなど)によって初めてその意義を与えられるのであって、芸術そのものだけがその芸術の可能性を見出し、新たなメディウムを発見することができる。メディウムとはそうしたジャンルや類型など、その芸術の慣習や伝統までをも含み込んだものであった。カヴェルはそうした慣習をも「自動性」と呼んだので、「自動性」の語は写真の自動的複製、世界の自律性、自動化された慣習など複数の意味を担わされることとなった。カヴェルはまた、映画が半世紀以上にわたって大衆的な伝統芸術にとどまってきたことを強調しつつも、いまやモダニズムへの移行期にあるとし、現代の芸術の使命は新たなメディウム、新たな自動性をつくりだすことだと規定した。カヴェルはその後、『幸福の追求』(1981年)や『涙への抗議』(1996年)において独自のジャンル論を展開してゆくことになる。こうした物質に還元されない慣習までを含んだカヴェルのメディウム観は、グリーンバーグ的なメディウム・スペシフィシティの議論を越える射程を秘めており、ロザリンド・E・クラウスなどのポスト・メディウム論の文脈においても取り上げられている。
著者: 角井誠

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