Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

感覚の空間化──王澍の実践について 助川剛(建築家) - 10+1 web site|テンプラスワン・ウェブサイト

http://10plus1.jp/monthly/2012/08/issue2.php


◇ 201208 建築家、再考──王澍の反全球的中国建築 - 10+1 web site|テンプラスワン・ウェブサイト

王澍がプリツカー賞の最終選考に残ったみたいですよ。

世間話にしては衝撃的で感動的な一言であった。2011年の暮れ、その王澍(ワン・シュウ)が設計した厳しく底冷えのする製図室でのエスキスを終えたのは夜の8時も過ぎたころであった。この苦行で冷えきった身体を温めようと、他の先生方とともに小走りで行きつけの料理店に向かう道中、今特集の執筆陣の一人である李凱生が白い息を吐きながら話しかけてきた。
足を止めることなく、暗がりにかすかに広がる《中国美術学院象山キャンパス》の建築群のヴォリュームと稜線を辿る。このキャンパスのほぼすべての建築は王澍が設計をし尽くしたものである。「王澍が獲るなという予感だけが沸き上がる。彼の受賞が、中国国内の建築界にとっても、世界の建築界からの中国現代建築に対する理解を刷新するうえでも、いまもっとも必要なことでありこのうえなく効果的で戦略的な展開であるように思えたからである。

結局、この2カ月半後に王澍のプリツカー賞受賞が正式に発表された。これで、中国という国に純国産の〈建築家〉という文化的な職業が正式に成立したわけである。そもそもこの職業において「正式」という定義はなにもないのだが、どういうわけか中国では自国産に対する疑いが大きいという、なんとも悲壮な矛盾があり、建築の分野においても中国人建築家に対する職能がなかなか認知されずにいるのである。こうした状況のなか、もっとも理解しやすいかたちで純国産建築家の存在と、中国現代建築というものが語りうる自国の建築の文化的価値が証明されたのであるから、今回の出来事の持つ意味は計り知れなく大きい。

http://10plus1.jp/monthly/2012/08/


◇ 王澍 (建築家) - Wikipedia

王澍(おうじゅ、中国語: 王澍、 Wang Shu, ワン・シュウ、1963年11月4日生まれ[1])は中華人民共和国の建築家。杭州市に本拠を置き、同市の中国美術学院で建築芸術学院の院長を務める。2012年にはプリツカー賞中華人民共和国の国民として初めて受賞した[2][3]。

王澍は1963年にウイグル自治区の首都ウルムチで生まれた。子供時代から絵を描き始めたが特別な美術教育は受けなかった[1]。美術家になりたいという情熱と、技師になってほしいという両親の願いの妥協の結果、王澍は建築家の道を選び、南京市の南京工学院(現東南大学)へ進んで1985年に卒業した。1988年に同校で修士号を得たが、修士論文の『死屋手記』は批判を浴び、修士号授与までには曲折があった[4][5]。
大学院修了後は、杭州の風景と美術の伝統に惹かれて杭州市へ移り、中国の美術教育の名門である浙江美術学院(現在の中国美術学院)に勤務し、古い建築の改修や、環境と建築の関係についての研究などを行った。最初の建築作品は同じ浙江省の海寧市に作った青少年センターで、1990年に竣工したが、以後1998年まで実際の建築を手がけていない[1]。その代わりに建築の研究を進め、上海市の同済大学建築・都市計画学院で博士号を2000年に得ている。同年に中国美術学院の建築芸術学院の教授となり、2007年には院長となった[1]。
1997年には妻で同じく建築家の陸文宇(Lu Wenyu)と共に建築事務所「業餘建築工作室」(Amateur Architecture Studio)を開いた[2]。「アマチュア」という事務所名は、中国の都市開発の陰で進んでいた古い街並みの大規模な更地化への批判、それをもたらした「プロによる魂のない建築」への批判が込められていた[1]。
2000年には蘇州大学文正学院の図書館を手掛けたが、これにより2004年の中国建築芸術獎を受賞した[1][2]。2005年に作った「寧波五散房」(Five Scattered Houses in Ningbo)は、同年にスイスのホルシム社が設立したホルシム財団から、持続可能性の高い建築に贈られる賞(Holcim Award for Sustainable Construction in the Asia Pacific)を得た。杭州に作った住宅「垂直院宅−銭江時代高層住宅群」は、2008年にドイツの国際高層建築賞(International High Rise Award)にノミネートされた[1]。
2004年には寧波博物館の国際建築設計競技で勝利し、2008年に竣工させた[2]。建物のファサードは全て再利用された明代・清代のレンガで構成されており、また竹で補強したコンクリートも用いるなど、地域の特色と廃材の再利用を打ち出している。幾つかに分かれた建築群が傾斜した形状は近くの山並みにならったもので、また近くの水面からは水に浮かぶ船のように見えるなど、山や水に囲まれた港町である寧波市の風土を反映している[6]。この博物館は2009年に中国の最高の建築賞である魯班獎を得た[7]。その他の大きなプロジェクトには、寧波美術館(2005年)、中国美術学院象山新校区(2004年-2007年)、杭州南宋御街博物館(2009年)などがある[1]。
彼の建築は、「新たな地平を開くと同時に、場所や記憶と共鳴する」と評され[8]、また中国における批判的地域主義の建築の希少な例とも評されている[9]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E3%82%B8%E3%83%A5_(%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AE%B6)