Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ハーバート・クエイン作品の検討 - Examen de la obra de Herbert Quain-

http://www.cty-net.ne.jp/~ki-tani/rtf/Herbert_Quain.html


◇ 伝奇集 Jorge Luis Borges
http://www.cty-net.ne.jp/~ki-tani/rtf/Ficciones.html


◇ 大枠

『伝奇集』は、史上最強のビブリオフォビアにして究極の場末創造者、言語式アウトロー野郎「Jorge Luis Borges」の手になる初期代表作、『Ficciones』を基とした翻訳テキストである。色々参考にしているが、一応スペイン語の原文から起こしている。

日本語訳として篠田一士版と鼓直版が存在するなかに新たなものを付け加えるのは、「誤訳の多さが気に入らない」という理由が大きい。また、広く流布していると思われる鼓版は日本語として成立していない文章が多い。この人詩的表現は巧いのだが、正直前後の繋がりを取り切れていない箇所、意味が正反対になっている箇所が頻発していて、「お前は本当にスペイン語の専門家かッ!」と小一時間(略)。特に『バベルの図書館』は仏滅翻訳である(これについてはまたつっこむかもしれない)。

ということで、目下「伝奇集のまともな邦訳は存在していない」と言いきっていいと思う。(セイゴオさんもさ〜、お勧めするなら翻訳の駄目さつっこんでくださいよ。鼓版読んでないでしょ、ひょっとして(^^; )


#ちなみに鼓版は本当に誤訳が多い。プロローグの第一段落からしていきなり間違えている。。




僕はスペイン語の専門家でもプロの翻訳家でもないので、訳文について拙い部分はあると思う (語感の問題や詩的表現の置き換えはどうしても限界があるです)。が、論理的な側面でどうしようもなく間違った事は書いていないつもりである。翻訳方針は大体以下の通り。

  • 意味が明瞭になる事を重視する
  • なるだけ自然な日本語
  • テキストの「語り手の思考」を意識する (ボルヘス的に超重要)
  • 柳瀬尚紀の影響受けてます


正直「柳瀬版伝奇集」みたいのが出ればこんなことしなくて済むのだが、まあ無いものは自分で作るしかない。しょーがない。こうしてアジっておけば誰かいい新訳を出すかも知れないし……(訳注とか挟まってないのお願いします。どれとは言わないが……)。まあそんな感じで僕の孤独も華やぐんだと思う。(2007/1/20)

http://www.cty-net.ne.jp/~ki-tani/rtf/backstage.html


◇ 伝奇集 - Wikipedia

『伝奇集』(でんきしゅう、Ficciones)は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの代表的短編集。スペイン語小説集。1944年刊行。元は1941年の『八岐の園』(やまたのその)と1944年の『工匠集』(こうしょうしゅう)の2篇だったものをまとめたもので、全17篇の作品からなる。

八岐の園のプロローグには有名な言葉:

「数分で語り尽くせる着想を五百ページに渡って展開するのは労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすことだ」

が語られている。すなわちボルヘスは引用という行為自体が、引用元の内容の有無に関係なくそれ自身である程度の意味を持つという認識に初めて至り、新しい形の創作を生んだのである。これについてウンベルト・エーコは「ボルヘスハイパーテキストを先取っていた」と述べている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E5%A5%87%E9%9B%86


ホルヘ・ルイス・ボルヘス - Wikipedia

1899年、ボルヘスは教養ある中産階級の家庭に生まれた。出生した場所はブエノスアイレスの中心区であったが、それから間もなく一家は同都市郊外のパレルモに転居している。父 ホルヘ・ギリェルモ・ボルヘス・ハズラムは弁護士であり、また外国語教師養成学校で英語を使った心理学の講義も受け持っていた。父方は、イタリア系やユダヤ系の血が流れており、セファルディムユダヤ人の末裔に当たる。 ボルヘス自身はとりわけイギリスとユダヤの血を誇りにしていた。祖母はイングランド人であり、その英語は母親譲りのものであった。ボルヘスの母レオノール・アセベドスアレスウルグアイの旧家の出で敬虔なカトリックであった。母方の祖先にはヨーロッパからの南アメリカの植民に大きく関わった軍人もおり、家族はしばしばボルヘスに彼らの英雄譚を話して聞かせた。

1914年、第一次世界大戦勃発の前夜に、ボルヘス一家はスイスのジュネーヴに渡った。父親の眼の治療のためと、ボルヘスおよび妹のノラの進学のためである。ボルヘスカルヴァン学院(Collège Calvin, 正式名Collège de Genève)の中等科に進んだ。授業ではラテン語、フランス語が使われており、これに加えてボルヘスはドイツ語を独習しハイネやマイリンク、ショーペンハウアーなどを読んでいた。その後一家は、アルゼンチンに戻ることを決めるが、その前にスペインで1年間生活することに決め、1919年にスペイン・バルセロナに移った。すでに1918年にカルヴァン学院でバカロレア資格[3]を取っていたボルヘスは創作に専念し、バルセロナでは『ギリシャ』誌を中心とする前衛的な文学運動ウルトライスモに参加した。スペイン滞在中にボルヘスはエッセイ集と詩集を書いたが、いずれも出版はせず破棄してしまった。

1921年3月、一家とともにブエノスアイレスに帰郷したボルヘスは本格的な作家活動を開始し、この年に若い作家を集めて壁雑誌『プリスモ』を発行した。これはただ一枚の紙に印刷したものを街中の壁に貼ったもので、第1号には「ウルトラニスモ宣言」が載せられている(2号で終刊)。ボルヘスは当初ウルトラニスモの立場を鮮明にしていたが、後に初期の活動を強く後悔することになる[4]。著名な批評家ビクトリア・オカンポ(スペイン語版)の後援を受け、1923年に処女詩集『ブエノスアイレスの熱狂』を出版。1930年までの間に3冊の詩集と4冊のエッセイを刊行、3種の雑誌を刊行し、このうち3番目のエッセイ『アルゼンチン人の言語』がブエノスアイレス市民文芸賞の第二席となった。ボルヘスは賞金で得た経済的余裕を利用し、隣人であった無名の詩人エバリエスト・カリエゴの伝記を1年を使って執筆している。

1955年、革命の成功によりペロンが失脚し、ボルヘスは周囲の推薦によって新政権からアルゼンチン国立図書館の館長に任命された。翌年にはブエノスアイレス大学の英米文学教授にも就任する。しかしこの頃にはボルヘスの視力はかなり衰えており、20代からの度重なる手術の甲斐なく50年代末には盲目同然となっていた。ボルヘスの失明は遺伝性のもので[9]、父もまた手術を重ねた末晩年に視力を失っている。盲目となって以降作品は口述筆記によって作成し、また記憶だけを頼りにして作ることができる定型詩を好んで作るようになった[10]。晩年には古代英語と古代アイスランド文学の研究に没頭した。
ボルヘスの作品は1950年代以降、ロジェ・カイヨワが中心となってフランスに翻訳紹介され次第にその名が知られるようになった。1961年にはサミュエル・ベケットとともに第一回国際出版賞(フォルメントール賞)を受賞し国際的名声を得る。その後マドニーナ賞(1966年)、エルサレム賞(1972年)、セルバンテス賞(1980年)、レジオン・ド・ヌール勲章(1983年)などを受賞している他、オクラホマ大学、コロンビア大学、オックスフォード大学等から名誉博士号を受けている。
ボルヘスは1967年に旧友エルサ・アステテ・ミジャンと結婚したが、しかし教養のない彼女との共同生活はうまくいかず、1970年に離婚。1985年にジュネーブに移住後、教え子でありボルヘスの個人的な助手を務めていた日系人マリア・コダマと1986年4月に再婚した。同年6月、肝臓癌により死去。遺体はジュネーブのプランパレ墓地に葬られている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%98%E3%82%B9