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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

小特集:研究ノート:プレ・メディウム的条件──拡張映画とニューメディア論(古畑百合子) - 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉

ここ数年、美術史家のロザリンド・クラウスによって提唱された「ポストメディウム的状況」という言葉が映画学やメディア研究の領域で使われることが増えてきた。「ポスト」という形容詞は時代的な転換、あるいは状況の変化を示唆する。そのせいか、90年代以降のニューメディア論の領域ではポストメディウム的状況という概念は、デジタル革命以降のメディア環境、つまり記録・伝達媒体としての近代メディアが独立性を失って融合していく技術的な状況と重なるものとして意外と短絡的に捉えられることが多い。しかし、クラウスが意味するポストメディウム的状況は、もともと60年代から台頭したインターメディア、そしてインスタレーションという「芸術一般」(art-in-general)へと向かう作品がコンセプチュアル・アート以降急増していった歴史的状況を分析するために使われた概念である(※1)。アートの「可能性の条件」としてのメディウムの固有性を擁護するクラウスにとって、デジタル・コンバージェンスなどの言説に代表される90年代以降のメディア環境の変化は、必ずしもポストメディウム的状況とは重ならない。なぜなら、フリードリヒ・キットラーやマーク・ハンセンなどのニューメディア論者が唱える「メディウム」概念と、クラウスが美術史の文脈から引き出す「メディウム」概念は同義ではなく、別々の認識論的な見地に基づいているからだ(※2)。もちろん、重なる部分は少なくない。けれども、この二つの文脈が取り替え可能なものとして誤解されることで、逆に見えなくなってしまうテクノロジーとアートの歴史的な関係性がある。そのためにも、いったんニューメディア論の言説から離れてクラウスのメディウム論に戻ることで、ポストメディウム的状況という概念を映画学やメディア研究の領域に再度取り込む作業が必要とされている。そのような必要性を前提に、この小論では固有性ではなく一般性へとアートが向かうポストメディウム的状況への批判としてクラウスが展開した「メディウム」の再定義、とくにそれを支える「技術的支持体」と呼ばれる概念に注目し、60年代に台頭した拡張映画(エキスパンデッド・シネマ)をケーススタディとして「プレ・メディウム的」とでも呼びうる技術的支持体の条件について考えてみたい。

http://repre.org/repre/vol21/post-museum-art/note01/