Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

東京大空襲をとらえた写真見つかる NHKニュース

およそ10万人が犠牲となった昭和20年3月10日の東京大空襲で、燃え盛る町を記録した写真が見つかりました。
戦後70年がたとうとするなか、空襲のさなかに地上から撮影された写真が見つかったのはこれが初めてで、専門家は「空襲が、人々が住む町を標的にしていたことを改めて裏付ける非常に貴重な資料だ」としています。

太平洋戦争中、東京には昭和19年11月から翌年8月まで空襲が繰り返されました。
なかでも、昭和20年3月10日未明の東京大空襲では、およそ10万人が犠牲となりましたが、これまで、空襲のさなかの町を地上から写した写真は見つかっていませんでした。
ことしになって東京・江東区東京大空襲・戦災資料センターの研究員たちが、当時、海外向けの宣伝雑誌を作っていた団体のカメラマンが撮影したネガを遺族から借り受け分析したところ、大空襲のさなかに撮影された貴重な写真7枚が初めて見つかりました。
このうち、最も鮮明な1枚は、千代田区九段下にあったビルの上から、今の江東区とみられる辺りを撮影したもので、立ち並ぶ住宅が燃え盛る様子が写っています。
撮影場所のビルも空襲で焼けたことから、この写真は、空襲が始まって初めのころのものだとみられています。
この写真に加え、今回は、カトリック教会が全焼しその前でたたずむ神父や、浅草寺の焼け跡と本尊が無事だったことを人々に伝える立て札が写された写真など、東京で繰り返された空襲の被害を記録した写真、合わせて450枚余りが見つかりました。
写真の分析にあたった東京大空襲・戦災資料センターの山辺昌彦研究員は「最も被害の大きかった3月10日の写真をやっと見つけた。空襲が、人々が住む町を標的にしていたことを改めて裏付ける非常に貴重な資料だ」と話しています。
今回見つかった写真は来年2月から東京・江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」で公開される予定です。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141107/k10013037301000.html


東京大空襲・新たな写真(テレビ報道1件/週)|JCC

11/07(金) BS1 【BSニュース】
東京大空襲・新たな写真
太平洋戦争中、東京で繰り返された空襲の被害の様子を記録した写真が新たに見つかった。
この中で、約10万人が犠牲となった昭和20年3月10日の東京大空襲で、燃え盛る町を記録した写真が見つかった。
地上から撮影された写真が見つかったのはこれが初めて。
写真は海外向けの宣伝雑誌をつくる団体カメラマンが撮影したもので、このほかカトリック教会が全焼し、その前で佇む神父などあわせて450枚余の写真が見つかった。
東京大空襲戦災資料センター・山辺昌彦研究員のコメント。
東京・江東区の映像。
撮影:東方社・菊池俊吉。

http://jcc.jp/sp/jiken/53262/


NHK東京大空襲583枚の未公開写真」 - やまねこマッサージ

NHKスペシャルで「東京大空襲583枚の
未公開写真」という番組が放送された。


これまで、当時警視庁のカメラマン石川光陽さん
が警視総監直々の命令を受けて撮影したもの
しかない、というのが通説だった。

それ以外の583枚の未公開写真の番組だった。
撮影したのは陸軍参謀本部の直属出版社「東方社
(1941-47)。木村伊兵衛が写真部責任者で濱谷浩や
菊池俊吉等が働いていたそうだ。


外国への宣伝誌『FRONT』の発行が主たる業務
だったが、空襲の写真も撮っていたらしい。
そのネガが発見された。第一級の史料だ。

昨年、東京大空襲・戦災資料センターに寄贈される。
戦災資料センターでは研究所内外の研究者により
研究会を組織し、科学研究費助成事業を受ける。


カメラマン助手だった浅野隆(当時19歳)さんが
木村伊兵衛の忘れられない言葉を語っていた;
「現場で起きていることを後世に伝え残す」
戦争末期における彼の使命に対する強い意志を感じる。

http://blog.goo.ne.jp/grenc/e/e93fee181d877c785ba227d0302a100c


◇ 菊池俊吉 - Wikipedia

1916年(大正5年)、岩手県花巻市御田屋町生まれ。1937年(昭和12年)、オリエンタル写真学校を卒業後、1938年(昭和13年)東京光芸社写真部に入社し、報道写真家として始まり。1941年(昭和16年岡田桑三が設立した東方社写真部に入社、1942年(昭和17年)2月に創刊された陸軍参謀本部の対外宣伝グラフ誌『FRONT』の写真部員となる。戦時中、日本本土及び外地の部隊、産業記録撮影など幅広く活躍した。
1945年(昭和20年)敗戦後、解散の東方社スタッフは文化社として再建。同年9月、文部省の学術調査団のもとで原爆被災地の医療状況を記録映画撮影、スチール写真担当として医学班に属し、10月1日~10月22日被爆後の広島を撮影[1]。1946年(昭和21年)4月、焼け野原となった東京ドキュメントとして『東京1945年・秋』を出版。1947年(昭和22年)8月、復興中の広島をアピールするための写真集『LIVING HIROSHIMA (PDF) 』製作のために再び広島へ。文化社の解散後、1951年(昭和26年)以降『世界』、『中央公論』、『婦人公論』などのグラビア頁を担当。科学雑誌に内外科学者のプロフィールと科学実験など科学分野の写真で知られた。1985年(昭和60年)、歴史的資料となる写真集『銀座と戦争』、『昭和の歴史』に作品が掲載。
1990年(平成2年)、急性白血病により逝去、享年74。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E4%BF%8A%E5%90%89