Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2015-08-19]後退局面〜無知の反復〜ネオ業界くん〜ヴァルター・ベンヤミン

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年07月27日 - Twilog

しかし、コラージュというジャンル自体、非常にレベルが高く、ほとんどのことはやり尽くされていると思われるので、実際には手を出せずじまい。多くのアーティストが日々の営みとしてドローイング的に取り組んでいますし。ある人が大竹伸朗さんをモツ焼き屋さんに例えていましたが、仕込みと調理

のみならず仕入れも重要になってくるというのも難しいところ(そちらは形式や構成、構造ではなく、テイスト方面ではあると思いますが)。近年では、2013年のヴェネツィアビエンナーレ「Encyclopedic Palace」で見た大竹伸朗さんとAlbert Oehlenさんの差異が印象

に残っていますが、その展示では大竹伸朗さんの方が圧倒的に優れていると思いました。大竹さんに比すると、アルバート・オーレンは欧米人にとってのテイストやフェティッシュにのみ依っていると感じられた、というのがその大きな理由ですが。https://twitter.com/n291/status/360013116609794049

ごく最近では、THE COPY TRAVELERS展@ NADiffを見てきましたが、優美な屍骸(1920年代)に連なるものなんでしょうけども、SNSを中心に反響があるというのがイマイチよくわからず。幸田俊明さん&石塚トモヒサさんの「筆将棋」は2005年(ややネタ的ですが)ですし

IIIIIIIIIII(イレヴンアイ)も10年くらい前で、「連鎖くん」は2010年。http://j.mp/1U1FhH2 http://j.mp/1U1Fkml そういうことはもちろん、NYのThe Journal等のカルチャー誌(Urs Fischerのコラージュ

を知ったのもこのあたり。Dan Colenも?)なんかに載っている、アーティストやグラフィックの人のコラージュを知っていたりとか、Parker Itoらネット世代のコラージュやPaint FXを知っていたりすると、作った作品を敷き詰めているものがたくさんあった(しかしタブロー?は

額装)ということ以外、とくに何がどうかというのが、やはりよく見えてきませんでした(可搬性のあるプリントについても武居功一郎さんが以前イレブンアイで)。各作家のスタイルなり興味関心、グリッドおよびフレーム(切断面の扱い)、表象された女性に対するフェティッシュ等、を読み込んでいけば

楽しめるというのも、もちろんわかるのですが。ということで、NADiff店内にTHE COPY TRAVELERSの特設コーナーが大々的に設置されている一方で、MASSAGEの10号がひっそり置かれていたのが印象的でした。http://j.mp/1U1G2Qs

CBCNET »「MASSAGE 10」オンラインとフィジカルな現実が入れ子状に繋がり合うインターネットカルチャーの「いま」を紹介】http://j.mp/1U1G5f5 【MASSAGE 10】http://j.mp/1U1G2Qs

ちなみに、NADiffのTHE COPY TRAVELERS特設コーナーでは、「かげうつし−−写像・遷移・伝染−−」と「パズルと反芻」のカタログをワークショップ用の資料として購入しました。現在の参加者のこともあって、コラージュ等についても、今後より考えていかないといけない事柄。

再度:♪ TheTape-beatles - Grave Implications (1993) https://youtu.be/q6RYz5VR31U ※http://twilog.org/n291/search?wod=Tape-beatles&ao=a

http://twilog.org/n291/date-150727/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年07月28日 - Twilog

@takseko まあ、武居さんとか小野さんなら(あるいは長谷川さんなら)失笑ものというか、戸惑うとおもいますよ。仕上げがイイ感じなのは、ちょっと前の海外の動向、それぞれの営みに何らかの批評性があるのかどうかというと微妙。ジーゲローブのゼロックス・ブックに接続された日には(^^;

http://twilog.org/n291/date-150728/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年07月29日 - Twilog

“新しくないところが新しい”という、《かつて=よく=あった》ようなレコ評的クリシェによるレトリックで……

“「新しくないところが新しい」(=何も新しさがない、ということは、新しさを強調するものがあふれている中では、かえって新しい)”

https://pic.twitter.com/7wpzKsdO2E レトリックという単語を知ることができてよかったです。”

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_deail/q1168545931

@takseko そういえば、長谷川敦史さんは、その後、どうされてるんでしょうか?知らないあいだにウェブサイトも落ちてしまっているようですし、twitterのアカウントも見当たらず。。

fine artにおけるinstitutional critiqueなどとはまったく関係なく、メディア、展覧会、SNSといった媒体を利用していかにバズれるか、ブックマーケティングによっていかに既成事実化できるか、が焦点化されているという点において、“新しくないところが新しい”?

in December 1968, and "January 5–31, 1969" exhibition, which contained no objects, no paintings and no sculptures. http://j.mp/1LQMAP0

THE XEROX BOOK,” SETH SIEGELAUB AND JOHN W. WENDLER. FIRST EDITION, 1968. EDITION OF 1000 http://j.mp/1LQMXZZ PDF: http://j.mp/1LQN87v

「かっこいい」かどうか、「美しい」かどうか、など、fine artにとって関係ないものであり、そんなものは作品の価値基準にならないのに、artを学んでいるはずの美大生が「かっこいい」云々を言うことが多いのはなぜか?applied artを専攻しているのなら、まだ理解可能。

※基本中の基本 https://twitter.com/n291/status/451607358574059520 https://twitter.com/n291/status/606478323158384641 https://twitter.com/n291/status/60478323158384641

この国には中間領域(業界)がそれなりにありますし、こだわらなければ、立ち回りでやっていくのも短期的ソリューションとしてはアリなのでしょう。そうした業界も今後ますます萎む一方ですし、末端の新陳代謝の激しさに比して既得権益者が居座るばかりなので、それはそれで才覚が必要なのでしょうが。

http://twilog.org/n291/date-150729/allasc


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◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年08月09日 - Twilog

私の役回りとしては、これらが眼目でしたが、それが伝わるべくもなく。『啓蒙の弁証法http://j.mp/1HyhEgm 『ルイ・ボナパルトブリュメール18日http://j.mp/1HyjU7a 『日本・現代・美術』http://j.mp/1Hyk9z7

[1行ネタ]写真だって、アートしたい。(糸井重里あるいはイチハラヒロコ風)http://d.hatena.ne.jp/n-291/20150809 ※http://twilog.org/n291/search?wod=%EF%BC%91%E8%A1%8C%E3%83%8D%E3%82%BF&ao= http://twilog.org/n291/search?wod=%E4%B8%80%E8%A1%8C%E3%83%8D%E3%82%BF&ao=a

「ワタシはカメラとアートする。Summer 1985」「私はカメラとアートする。Summer 2015」「現代美術だってアートしたい。Summer 1990」「現代アートだってFINE ARTしたい。Summer 2010」とか。

http://j.mp/PQhvxd こういうのとか、ポストなんとか http://j.mp/1Hyo7Ia とか、まあ何でもよいのですが、気をつけないと次のような結果に。http://j.mp/12Yu5UL http://j.mp/1KX2DJJ

再々囀:コンプレッソ・プラスティコのインタビューに出てくる「ラブとゴールド」はDAFだと思われます(作品のテイストも? もちろんボイス、パイクetc.etc.なども盛り込んでいるんでしょうけども)。日本的な哀しさが満載です。http://youtu.be/8QqiXGZ3YlA

DAF「Verschwende Deine Jugend」(あなたの青春を無駄にしなさい)https://youtu.be/RCHLIX7ZCT0?t=m32s… 収録アルバムは『Gold Und Liebe』(愛と黄金)。何かの真似ではないからか、30年以上経っても、さして劣化せず。オリジナル版をぜひ。

※2012年07月21日(土) http://twilog.org/n291/date-12071/allasc

“ついで、暗闇の中に夢がくゆり、ゆらめく光線の蜃気楼にふれて燃えあがる。スクリーンの上の出来事は完全に生きうつしとはいえない、貧乏人のために、夢のために、死者のために、大きな部分がぼかされている。そいつを、その夢を急いで胸いっぱいに詰め込んでおかねばならない。[……]

[……]一歩映画館を出れば待ち受けている人生を乗り切るために、恐ろしい事件や人間のあいだでまた幾日も生き続けるために。それらの夢の中からいちばん魂を温めてくれるものを選り出すのだ。”(セリーヌ生田耕作訳『夜の果てへの旅』文春文庫より)

ルイ=フェルディナン・セリーヌが記した、この「スクリーン」が、現在は「インターネット」なり「SNS」なりになっているとか?

再々囀:山形浩生さん【浜野『なんとかはキリストを超えた』】http://j.mp/WirUUT ※今の人ならティル・ナ・ノーグ http://j.mp/135oOFz のシナリオジェネレータをロシアフォルマリズムや現代思想にからめてそれっぽく語ったりするんでしょうか

再囀:“相変わらずそんなことに喝采を続け、「クールだよな」と無邪気に喜ぶことだろう”http://j.mp/1cINij2 山形浩生『たかがバロウズ本。』(03年)より http://j.mp/xB8Un0 ※現在なら「クールだよな」ではなく「アツい」とか「ネ申」?

各個々人の、自分が生まれたディケイドに対するノスタルジアと、自分がティーンエイジャーだったころのディケイドに対するノスタルジアの違い、それへの没入具合についてなんとなく考えてみたものの、とくにまとまりはく、といったところが、本日の成果といえば成果。

“故郷または過去を懐かしむ気持ち。これは単純な前衛=進歩史観にとってはやっかいなものである。なぜならノスタルジアは、間違いなく「進歩」の妨げになる心性だが、一方で「進歩」そのものがたえず「新しいもの」を産み出すことで、同時にノスタルジアの対象、「懐かしいもの」を産み出してしまうの

…)だから。特にこのノスタルジアが近い過去に向かうときは悲喜劇的だ。例えば90年代も終わろうとするこの時点から見ると、あれほど「新しかった」シミュレーショニズムもすでに「懐かしい」。もちろん、そのようにノスタルジアの対象となることに抵抗し続けるものもある。永遠の価値、あるいは

…)たえず新しく見出される価値をもつそれは、どの時代に生まれたものだろうと「古典」と呼ばれるだろう。けれども一方で、「常に」懐かしい気持ち、つまり相対的でない絶対的なノスタルジアを、あえて求める試みもある” ※執筆者は林卓行さん http://j.mp/1KX4MVS

https://twitter.com/search?f=tweet&vertical=default&q=%22%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%8C%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%22&src=typd

マイナー業界であっても、そこで営まれているゲームや仕掛け、手法などはメジャー業界で行われているものや広告屋さんのそれと、その規模こそ違え、構造的にはさして変わらなかったりもする(経済循環が閉鎖回路内の吸い上げシステムになっていることを除けば)ことは、誰もが知りつつも、それを温存?

“メディア、展覧会、SNSといった媒体を利用していかにバズれるか、ブックマーケティングによっていかに既成事実化できるか”http://twilog.org/n291/search?wod=%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0&ao=a… に勤しむ、00年代後半以降に目立つようになり、10年代に増殖してきた人々を「ネオ業界くん」と個人的には呼称してます

「言いてぇ事言うのがヒップホップだろ」(キングギドラ 最終兵器 歌詞 http://j.mp/1T9362Q) 個人講座ではよくこの話題になり、ワークショップではたまに話す事柄。つまり、「言いたいこと」「伝えたいこと」がないのに、作品をつくっていても仕方がありません。

スラヴォイ・ジジェクポストモダン共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』(ちくま新書)は未読。コミュニズムが可能なるものなどとはまったく思っていませんが http://j.mp/1T97U8e 、先日のトークとも関連しそうですし、そろそろ読むべきでしょうか。

Contemporary Art Daily http://j.mp/1T993wy でも何でもよいのですが、ウェブで作品や展示の画像を見て感動!影響を受ける。みたいなことは、心情として理解できるものの、それって白黒図版で印象派に感激!の白樺派から何にも変わってなかったり。

[1行ネタ]The images you own end up owning you. http://j.mp/1mmJqHl

デスクトップでの単調な作業と外界世界に対する漠たる気鬱が、twitterなどに向かわせるのでしょうが、そろそろ打ち切り。すべては自分の能力の欠如に起因するのでしょうが、それはそれとして自分で解決するしかないものであり、またそれを私という個にとっての特殊事例だと考えないことが肝要。

かつてのなりわい的に140wに収納。それはそうと、業務上守秘すべき情報を漏らすような編集者なりライターなりが増えているように思えるのは、業界の劣化なのか何なのか(従事者の質の急降下は90年代から言われていることなのでしょうけども)。編責を通して許可をとっているとは思えないですし。

http://twilog.org/n291/date-150809/allasc










◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年06月02日 - Twilog

https://twitter.com/n291/status/298723299314253824 について、ごく簡単に。
1.テクノロジーブラックボックス化(悪い意味での再魔術化) 2.日本の残念なネット文化(特定のスラングや流行に駆動されるあれこれ。ただし両面価値) 3.オッカムの剃刀 4.言語・情報ベースの作品の系譜として

“十九世紀においては、技術の進歩によって、使用価値をもった品物が次々と通用しなくなってしまうので、意味を失って「空洞化」した事物の数がこれまで知られなかった規模と速度で増大している”(ヴァルター・ベンヤミン

“近代的な技術の世界と、神話のアルカイックな象徴の世界の間には照応関係の戯れがある、ということを否定できる者がいるとすれば、それは、考えることなくぼんやりものを見ている者ぐらいだ。技術的に新しいものは、もちろん初めはもっぱら新しいものとして現れてくる。しかし、すぐそれに引き続いて

なされる子どものような回想のなかで、新しいものはその様相をたちまちにして変えてしまう。どんな子ども時代も、人類にとってなにか偉大なもの、かけがえのないものを与えてくれる。どんな子ども時代も、技術的なさまざまな現象に興味を抱くなかで、あらゆる種類の発明や機械装置、

つまり技術的な革新の成果に向けられた好奇心を、もろもろの古い象徴の世界と結びつけるものだ”(ヴァルター・ベンヤミン

http://twilog.org/n291/date-150602/allasc