Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2016-05-08]写真版ゾンビ・フォーマリズム(ゾンビ・コンセプチュアリズム)に関連して、展覧会カタログ『カメラのみぞ知る』について+α

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年08月02日 - Twilog

今週金曜日までに『シミュレーショニズム』にPictures @ Artists Space (1977)の記述があるのかどうか、あるいは『美術手帖』1989年1月号等に同様の記述があるのかどうかを調べるのが、今とるべき行動としては2番目にベストだと思うものの、酒精がそれを許さず。

Kindle版が出た某ハード・コアには、言及がありますが、1995年当時、その言葉にどういった背景があり、どういった文脈でその言葉使われているのか理解した人がどのくらいいたのかが気になるところ。Octoberや海外の美術雑誌等を原文で読んでいれば、当然の前提だった?のかどうか。

その話につなげると、展覧会カタログ『カメラのみぞ知る』(2015年 ※恐るべきことにカタログがメインであり、展示は従属物であったのだとか。展示作家談)のトップを飾る論文に、Pictures (1977)への言及はないわ(ボードリアールやピーター・ハリーについてはもちろん、80年代

の具体的な事象についての言及もなし)、1920年代30年代についての言及はないは、60年代のコンセプチュアリズムについての具体的な話はないは、ポップアートとの関連についての話はないは、そんなことはさておき、果たしてこの論文が日本語なのかどうかすら怪しいは、で、日本って平和ですね。

http://twilog.org/n291/date-150802/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年08月03日 - Twilog

あっ、もちろん00年代以降の抽象写真再考や、Shirana Shahbazi、Roe Ethridge、Elad Lassry、Annette Kelm等(もちろんキュレーターのRoxana Marcoci等)への言及もありません。念のため。で、その論文?が英訳されているという。

酒精のせいか、キュレーターからBeatrix Rufが抜けてしまいました。酒精のせい、便利!でも、キャラクター力(ぢから)がないと、だいたい結局怒られるか呆れられてしまいます。。

RT イヌ@mori_ful

シャーロット・コットンはイギリスの後藤繁雄という理解でいいんだろうか。

中間的なマーケットもそれなりにできてきたことですし、橋を渡ってしまったってことでしょうか?サイモン・ベーカーにしても。ある時期以降の2人の登板機会を洗うと面白い結果がでるかもしれません。QT @mori_ful シャーロット・コットンはイギリスの後藤繁雄という理解でいいんだろうか

後藤さんは必ずしもFine Artの人ではありませんし、根っからの編集者で美味しいコンテンツを美味しいタイミングで、ということで中間的な領域の創出という意味では評価してよいのかもしれず。QT @mori_ful シャーロット・コットンはイギリスの後藤繁雄という理解でいいんだろうか

彼女が関わっていた重要な企画の記録出版物『Words Without Pictures 』の日本版出版が流れてしまったのは残念なことでした(これも後藤さんがらみ?)。これ以降、彼女のスタンスも変わった?QT @mori_ful シャーロット・コットンはイギリスの後藤繁雄という理解

先日のバーゼルでのやりとり。サイモン・ベーカーって若い人みたいですけど、どういう人ですか?(某JFの方)いや、案外軽いですし、アートというかどちらかというとカルチャー系では?(私)ああ、やっぱりそうなんですね(某)出たがりなんじゃないですか?変なものに絡んでたり(私)あー(某)

.@mori_ful 論集です。某所でDLも可能(消去されていなければ)。当初はウェブをプラットフォームとしたプロジェクトだったので、ウェブでも読めたようです。所収の「Photography's Expanded Field」とかタイトルもキャッチーなので被言及率も高いのでは。

Photography is Magic日本版の件ですね。僕もウッとなって、これはすぐに資料として手に入れねばと思いました。しかし秋頃発売とのこと。偽物と本物を抱き合わせというのも、いかにもソレ系の売り出しテクニックですね。<@mori_ful シャーロット・コットンはイギリスの

Photography is Magicというタイトルはコットンがメインブースのキュレーションを担当した韓国のDaegu Photo Biennale 2012と同タイトルです。<@mori_ful シャーロット・コットンはイギリスの後藤繁雄という理解でいいんだろうか。

ただ、その内容は、のちに振り返えると、80年代ポストモダン写真を通覧できる『Photography of Invention』http://j.mp/1fWAYxF のように、とてつもなく寒い一里塚となる確率が高いと思われます。<@mori_ful シャーロット・コットン

いえいえ、私の独り言におつきあいしていただいてしまって、すみませんでした。僕は全然英語文献を読めていませんが、David Campany、George Baker、Geoff Dyerあたりを読んでみると良いかもしれません。<@mori_ful ご教示いただきありがとうございます

Fotomuseum WinterthurのSTILL SEARCHINGのコメント欄に普通に書き込みをして英語で対等のやりとりができる日本人が複数人出てくるくらいにならないと日本の夜明けは遠い、と個人的には思っています。<@mori_ful ご教示いただきありがとうございます

http://twilog.org/n291/date-150803/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年08月19日 - Twilog

日本においてアートなど、どこまでまともにやってるフリをしたところで、所詮はサブカルでしかないのだとすれば、差し当たっては、“現代アート”版のRotten Tomatoesでもウェブに設立して、そちらに言説的な重み(権威)をシフトしていくのも手だとは、以前から考えていることですが。

いつまでこんな流れが続いているんだろう?とは心ある人々が感じていることなのでしょうが、Deutsche Bank KunstHalleの http://j.mp/1hLvE1r などは、先達と00年代と後発を切り分けて、正当に歴史化していくものであったりもするのでしょうか?

Photo-Poetics: An Anthology @ Deutsche Bank KunstHalleは、Claudia AngelmaierとKathrin Sonntag以外は北米の作家でElad Lassry以外は女性(確かLassryはゲイかバイだったはずです)。

そういえば去年夏の (Mis)Understanding Photography @ Museum Folkwang(WSでも紹介。しかしカタログはドイツ語版のみ)は、日本の写真界(?)では話題になっていたんでしょうか?荒木経惟さんのマニフェストも取り上げられていたようですが。

展覧会カタログ『カメラのみぞ知る』(2015年)の冒頭論文以外は、先週の前半に読みました(WSの二次会でも少し話題になりましたが)。2つめの論文は書き出しの記述からして7、8年から12、13年程度遅れている認識であったり(フリードを読みました。ってこと?)、エヴァンスとシャーンの

ハンドカメラの使用についてはFSAの話につなぐならミスリーディングだったり(エヴァンスの言葉の引用はFSAではなく『American Photographs』の話であり、スティグリッツのCamera WorkやGroup f/64と自身との距離感の話では?)、ポップアートに言及

していてIGについての話があるのはよいものの、歴史的な経緯についての正確さに関しては、私レベルでもけっこう疑問で、欧米の美術史家なんかに読まれてしまうと、まったく通用しないものなのでは?という印象。しかし、文章の抑揚については、そちらが職業である方だけに冒頭の論文とは天地の差。

3つ目の論文については、私も関心を持っている領域・動向であり(Lars Müllerから出ている『Dan Graham's New Jersey』は持っています)、とても興味深く読みましたが、非整数次元やブノワ・マンデルブロの話は蛇足という印象でした。そうした話を盛り込まないと、

批評的な味わいやコクが出てこないという判断なのかもしれませんが、比喩的に用いるのだとしてもどうなんでしょう。ボックナーの初期写真作品(や、それに連なる試み)については、それが単なる図やパターンや紋様づくりだと感じられ、作者がそれを企図していると認識された時点で、それは2次元の平面

に収束し、写真内のイリュージョナルな空間は失われるわけで、単なる2次元に終わることが普通のように思うのですが。。もちろん、そのときにそれを非整数次元というふうに言えるのかどうかは(2と3の振動では?と書いてみて量子化のことを思ったり、とか)、もちろん実際の展示空間での作品サイズや

プリントをどのようにマウントするのかといった仕上げが、観者の身体にどのように働きかけるのかに依存するのでしょうけども(2次元への収束は支持体(写真平面を支持する媒体)の3次元性のせり出し、通俗的でやや曖昧な言葉でいえば「写真の物質性」に結びつく)。

4つめの論文は、流石というか、読んでおいて損はなし。前半部分は読み直して、もう一度考えておきたい事柄がいくつか。あと、倉石さんが森山さんのどういった部分(バナリティといえば有名な森山さんの著書のエピソードです)に魅了されているのかが理解できたり(石川直樹さんのあの本への評価も)。

といったふうに書き飛ばしたもの、友人たちとカフェ等で話をすれば10分程度で終わる内容。それはさておき、また時間ができたら展覧会カタログ『カメラのみぞ知る』(2015年)は、もう少し細かく読み直してみたいと思います。場合によっては、もっと指摘できることは指摘してもよいのかなと。

http://twilog.org/n291/date-150819/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年08月19日 - Twilog

“BTでもIMAでも、「ファクトチェック」とか称して、批評の未発表原稿を、被批評者側に見せる行為が横行している”とのこと。これは私のかつての職場でいえば、「事務所チェック」あるいは「メーカーチェック」ですね。使用写真から記事の内容まで確認をとるという。やはりいよいよ末期的な状態。

“「ファクトチェック」とは、完全なる検閲”“被批評側が気に入らない表現や物言い(つまり批判)には必ずクレームがつく”とのこと。ジャーナリズムなどというものには数光年遠く、パブ(パブリシティ)でしかないということが露わになってきたというか。編集の質と思考停止も問題なのでしょうが。

再度:美術まわりも記事を装ったパブ記事しかないという印象。写真の世界の酷さに比べればマシなんでしょうけども(慣習化していて当事者たちはほぼ無自覚)http://twilog.org/n291/search?word=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%80%80%E7%BE%8E%E8%A1%93 【広告は「半真実」でしかない 神保哲生氏】http://j.mp/ZNRt6A

再度:大手メディアの周辺で飯を食うには?速水さんの場合→[初出]http://j.mp/12TidQ2 [現在]http://j.mp/12ThoGR 【「Life 天国で君に逢えたら」製作委員会? 天声人語というパブ広告】http://j.mp/12Thle4

再度:『美術手帖』についてもいつツイートしようかと思案中。https://twitter.com/n291/status/83584611363467264 媒体特性は広告(記事広含む)を見れば一目瞭然(やや論理が循環)。その想定読者は誰なのか?日本でmid career surveyが機能していない理由は?などをマクラに。

再度:まずは台割りを見てみよう(読み込もう)。専門性を持っている方なら折によるコンテンツの配置をはじめさまざまな要素が読み取れるはず。台割りで誌面を見ることができなくとも、目次と広告の入り方をよく見てみよう(ある広告に隣接あるいは対向している記事は何か)。パブじゃない記事は何割?

【資料 2015-08-19】http://j.mp/1hLu281 ※毒にも薬にもならない企画モノについて(よろず評論家が“新しくないところが新しい”と評しましたが(なんら“新しくない”まではまったく同意)、ものを知っている人にとっては、ほぼ価値を見出せない展示でした)。

http://twilog.org/n291/date-150819/allasc


◇ 齋木克裕(@ka2saiki)/2015年09月24日 - Twilog
http://twilog.org/ka2saiki/date-150924/allasc