◇ Dia Art Foundation - Exhibitions
James Coleman
James Coleman: Projected Images 1972-1994
April 14, 1994 - March 12, 1995
http://www.diaart.org/exhibitions/checklist/58
◇ James Coleman | The MIT Press
https://mitpress.mit.edu/books/james-coleman
◇ James Coleman | Art since 1945 | Hatje Cantz
http://www.hatjecantz.de/james-coleman-3289-1.html
◇ 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:小特集:研究ノート:プレ・メディウム的条件──拡張映画とニューメディア論
では、このようなポストメディウム的状況とハードウェアとしてのテクノロジー(例えば、ヴィデオやコンピュータ)の歴史的な関係はどのようにして捉えるべきなのだろうか。あえて美術批評の言説の内側にとどまろうとするクラウスは、ハードウェアとしてのテクノロジーの歴史的な発展とメディウム概念の関係を分析するための納得のいく方法論を提示しているとは言いがたい。だからといって、キットラーやハンセンのように技術決定論的な方向へ向かうのは避けたい。それでは、どのような方法論が可能なのだろうか。ここで手がかりになるのは、時代遅れになった商業用テクノロジーが技術的支持体としてアートの領域で再発見されるというクラウスが好むベンヤミン的な救済のロジックだ。ハンセンは、この救済のロジックをメディア考古学的と批判的に呼んでいる(※12)。確かにクラウスには、ベンヤミン的な救済のロジックとポストメディウム的状況への英雄的な抵抗行為を暗黙のうちに肯定する傾向がある。その代表が、クラウスが賞賛するジェイムス・コールマン(James Coleman)によるスライド映写機とコミックの再利用だといえるだろう。クラウスによれば、スライド映写機という時代遅れの技術的支持体をフォト・ロマンやコミックといった商業的で低俗な(つまり芸術的ではない)活字メディアが作り出した一連のルール、あるいは文法と組み合わせることで、コールマンは再帰的構造としての独自のメディウムを「発明」したということになる(※13)。
時代遅れのスライド映写機を技術的支持体として使用することである固有のメディウムを発明するという作業が、ポストメディウム的状況への抵抗でありうるとすれば、その逆に、ヴィデオやコンピュータといった時代の先端をいく技術的支持体を使うことでメディウムの固有性の消滅へと向かったのが、クラウスが否定するインターメディアとインスタレーションの流れだ。クラウスがインターメディアやインスタレーションの流れに批判的なのは、それらが自己言及を可能にする再帰的構造としての固有のメディウムを放棄するだけでなく、最新の流行を追うことでベンヤミン的な救済のロジックに反しているからだといえるだろう。
興味深いのは、『北海航行──ポストメディウム的状況の時代における芸術』でクラウスが展開するマルセル・ブロータスの分析だ。最近出版された『青いコップの下』(Under Blue Cup, 2011)では、ブロータスはコールマンやウィリアム・ケントリッジと並んで「メディウムの騎士」と賞賛されている。ところが十年以上前に発表されたポストメディウム的状況の初期の論考である『北海航行』では、ブロータスの仕事はもう少し両義性を孕んだものとして分析されている。例えば、ブロータスの映像実験についてクラウスは次のように書いている。「インターメディアとアートの終焉を代弁するかのように思われているブロータスの作品には、〈救済的〉としか呼びようのない裏地があてられているのだ(※14)」。統一されたメディウムの固有性の消滅へと向かったインターメディアの代弁者としてのブロータスが表だとすれば、初期映画の持っていた開放性を技術的支持体として再利用することで、映画という複合的で自己差異化するメディウムの持っていた救済的(redemptive)な可能性を追求したブロータスが裏ということになる。そして、この表と裏の緊張関係は別の箇所では「資本に仕えるイメージのグローバリゼーションと共犯関係にあるインスタレーションとインターメディア作品」とそれらに抵抗するかたちで時代遅れのテクノロジーを技術的支持体として救済するアーティストの作品との緊張関係に置き換えられる。ポストメディウム的状況とは、まさにこの表と裏をつなぐ緊張関係そのものによって特徴づけられているのだ(※15)。
ここでは、再帰的構造を支えるルールあるいは文法としてのマルチ・プロジェクションという形式に注目して、拡張映画の技術的支持体が意味する「技術」について考えてみたい。物質的支持体である映写機ではなくマルチ・プロジェクションという形式が、拡張映画の技術的支持体の一部として、つまり再帰的構造のルールとして取り入れられるようになるのは60年代である。では、この形式自体はどこから来たのだろうか。もちろん、初期映画の時代から、アベル・ガンスに代表されるように複数のスクリーンを使うという試みは行われてきた。けれども、60年代に一気に広まるマルチ・スクリーンそしてマルチ・プロジェクションという形式は、映画史の内側からではなく、コールマンが使用したフォト・ロマンやコミックという形式と同様に非アートの領域から取り込まれた文法として解釈することが可能だ。なぜなら、この形式が表現の再帰的構造として確立されていく過程には、ドーム型の投影環境、あるいは観客を取り囲むような没入型の環境を作るという作業が含まれているからだ。
http://repre.org/repre/vol21/post-museum-art/note01/
◇ James Coleman | Exhibitions | The Renaissance Society
http://www.renaissancesociety.org/exhibitions/338/james-coleman/
◇ Slide Piece, 1972-73 - MACBA: Museu d'Art Contemporani de Barcelona
http://www.macba.cat/en/slide-piece-1972-73-2751
◇ Van Abbemuseum: tentoonstelling
James Coleman : The MIT Project, 1989
Van: 16-12-89 tot: 04-02-90
Solotentoonstelling - Lezing: F. Lubbers (adjunct-directeur Stedelijk Van Abbemuseum) over The MIT Project (04-02-1990) . - Curator: Jan Debbaut (directeur) - Opmerkingen: Tweede uit een reeks van 5 audio-visuele presentaties - Met documentatie - Fotografie: Peter Cox
◇ Van Abbemuseum: tentoonstelling
http://vanabbemuseum.nl/zoek/tentoonstelling/?tx_dresolr_pi%5Bsend%5D=1&tx_dresolr_pi%5Bfield%5D%5Bsearch%5D=James%20Coleman
◇ JAIC 2001, Volume 40, Number 3, Article 5 (pp. 233 to 258)
TECHARCHAEOLOGY: WORKS BY JAMES COLEMAN AND VITO ACCONCI
TIMOTHY VITALE
http://cool.conservation-us.org/jaic/articles/jaic40-03-005.html
◇ James Coleman - Box (ahhareturnabout)
http://www.museoreinasofia.es/en/collection/artwork/box-ahhareturnabout
◇ James Coleman - YouTube
https://youtu.be/db-MdUWgWK0
◇ 顔とダイアグラム | 平倉圭 ‹ Issue No.48 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース
http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1384/
◇ Rosalind Krauss Reinventing the Medium メディアの再-発明 - photographology
アイルランドの作家ジェイムズ・コールマンの紹介でもあるこの論文は、クラウスの最近の写真への姿勢を知るうえでも重要です。この論文自体、何度かの発表の機会があったらしく、いくつかのヴァージョンがあります。今回は、『クリティカル・インクワイヤリー』のベンヤミン特集号に掲載されたものを紹介していきます。
ざっと目を通した感じですが、1960年代以降の美術と写真の関係を考察するうえでも、メディアとしての写真の可能性を再考するうえでも面白い論文です。
http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/kraussreinventm.htm
http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/
◇ 映像文化史の可能性 - Researchmap
メディアを再発明する (Rosalind E. Krauss, “Reinventing the Medium”)
• 美術批評家のロザリンド・クラウスは、連続するモノクローム のスチル写真によって構成されるクリス・マルケルの映画『ラ・ ジュテ』や、ジェイムズ・コールマンのプロジェクターによる写 真の投影に、マジック・ランタンという過去のメディアの現代 における再発明を見出している。
• 19世紀転換期の多様な上映形態や投影装置もまた、過去の、失 われたメディアではけっしてない。たしかにそれは、現在では衰 退し、時代遅れの存在であるかもしれない。しかしそれは、つ ねに再発明され、現在とは別の映像のあり方を浮上させる可能 性を潜在させている。
• 規範的な映画=フィルム・プロジェクションではなく、幻燈=ス ライド・プロジェクションの系譜の先に、別なる〈映=画〉〈映 =像〉を再発明していく可能性
https://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=69786
◇ ポストメディウム | 現代美術用語辞典ver.2.0
ポストメディウム
post-medium
芸術表現はそれぞれのジャンルに固有のメディウムへと純化されるべきである、とするクレメント・グリーンバーグによるモダニズムの規定(メディウム・スペシフィシティ)に抗して、アメリカの美術批評家ロザリンド・E・クラウスが2000年頃より提唱している概念。クラウスは、様々なメディウムの領域横断的な使用が美術作品の制作における所与となった1970年代以降の状況を指して、ポストメディウムの条件ないしポストメディウム的状況(post-medium condition)という言葉を用いている。彼女によれば、こうした状況下では、芸術表現はそのジャンルに固有のメディウムに還元できないため、グリーンバーグによるメディウム・スペシフィシティの理論は有効性を持たない。そこでクラウスは、「自動性」(スタンリー・カヴェル)や装置論などの映画理論の諸概念を参照しつつ、芸術制作における様々な約束事(convention)をも含みうる概念としてメディウムを再定義した。彼女はこの刷新されたメディウム概念の実例として、マルセル・ブロータース、ジェイムズ・コールマン、クリスチャン・マークレーなどの作品を分析し、そのなかでメディウムの異種混淆性やメディウムが内部にはらむ自己差異化の契機などを強調している。グリーンバーグ流のモダニズム理解に対するオルタナティヴを模索するという1970年代以来のクラウスの批評活動を総括する概念であると同時に、グリーンバーグ流のメディウム理解を更新して延命させる試みとも捉えうる。なお、映画理論に着想を得た本概念は、ひるがえってメアリー・アン・ドーンやマーク・B・N・ハンセンなど、2000年代以降の映画理論、メディア理論の研究者に注目されているほか、精神医学者・思想家フェリックス・ガタリ、メディア理論家レフ・マノヴィッチなどがクラウスとは独立してポストメディア概念を提唱している。
著者: 門林岳史
◇ INSTALLATIONIA: ロザリンド・クラウスとイヴ=アラン・ボアの対談(2)
ボア:では、“王子様”として、ジェームス・コールマンはどうだろう?彼もまた、インスタレーション作家であるといえる側面があると言われるよね。
彼の投影映像がどのように配置されているか、ということが彼にとっては大きな意味をもっている。単なる画像スライドの束ではないわけだよね。その配置、置き方、(スライドを差し込む)回転装置やプロジェクターなど、機器装置すべてが見えるという事も彼のプロジェクトの一部で。
(*一枚一枚がスライドプロジェクターに投影される古いタイプのプロジェクター?)
クラウス:まさにその通りです。ジェームスは、自身で設置していない作品が展示される事を許さないだろうし、自分の作品が勝手に再現されて広がっていく事も認めないでしょう。だから事実上誰もその作品を設置展示することができない。ただし、究極的にいうと、この作品の機器の役割が…作品がプロジェクターの回転装置にのっているスライドそのものであるといえる。スライドがレンズ前に移動するクリック音、スライドスロットの音、そして回転装置の回転音が聞こえ、スライドが現れてまた別のスライドに切り替わるので、常に装置のクリック音があるのです。彼の“I
N I T I A L S”という作品、元レディー・グレゴリー邸庭園で現在クール公園にある木に彫られたイニシャルから来ています。あの、アイルランド文学界の文豪達のイニシャル。オケシーのO.C,オスカー・ワイルドのO.W、ウイリアム・イェイツのW.Yなど…イェイツとレディー・グレゴリーが言い出しはじまった事で。それからあまりたたないうちに公園を訪れる人達が自分達のイニシャルの落書きを彫るようになって、木の周りにフェンスが立てられてた。でも、もちろんそれを乗り越え彫る人があとを絶たないというのが作品“IN I T I A L S”のお話。コールマンは、数人の演技者がスクリプトを読んでいるスライド音声を撮ったわけなんですが、“I N I TI T A L S”の中では、そのスクリプトを呼んでいるのが少年で、突き通るような甲高い声でたどたどしく読んでいるのです。例えば“導く”を“み…ち…び…く”と読んでいたりする。そのせいで、言葉全体を把握したり、理解する事がすごく困難なんです。だからその言葉の分断というのとの回転装置を介して移っていくスライド同士の分断…スライド音声の関係性が装置そのもの性に向かう、というのが私は、コールマンの作品を単なるインスタレーションとさせない部分だと考えています。
◇ オロスコの位置: ARTOPE
去年の『オクトーバー』の秋号でジョージ・ベイカーがクラウスの彫刻におけるエクスパンディット・フィールド(以下E.F.と略記。邦訳では「拡張する場」と訳されている)をパラフレーズして、ポスト・メディウム時代の写真のダイアグラムを作成しているが(George Baker, "Photography's Expanded Field", October 114, Fall 2005, pp. 120-40.)、もちろんこの中にオロスコは入りようがない。この論文の検証は後に行うことにするが、確認する意味でも、とりあえずダイアグラムを示してみよう。
ベイカーが作ったダイアグラムは、クラウスの図の「風景」と「建築」を「物語(narrative)」と「定常状態(stasis)」に入れ替えて、さらに菱形の頂点に位置する、
「位置―構築」
「公理的構造」
「彫刻」
「マークされた位置」に、それぞれ
「デジタル・モンタージュ“発声画像(トーキー)”」
「“フィルム・スチル”映画的写真」
「モダニズムの写真」
「“スチル・フィルム”投影されたイメージ」を置き換えている。
ベイカーはこのやや映画寄りに拡張した写真ダイアグラムの各項に、ジェフ・ウォール、シンディ・シャーマン、ジェイムズ・コールマンといった三人の写真家を当てはめて議論している。(コールマンについてはクラウスが『クリティカル・インクワイヤリー』1999年冬号に掲載された論考、「メディアの再発明」で紹介しているので、参照のこと。)