Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[2018-07-27]例の「信じるほかない」問題と写真における「信仰」のループ(金川晋吾 @ 東京藝術大学 大学院美術研究科 博士審査展)

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2017年04月11日 - Twilog

非研究者であるからこそ考えた事柄。ロラン・バルト『明るい部屋(Camera Lucida)』の着想の根本にあるものの多く(もちろん母の死は重要)はモランのフォトジェニー概念とコアン=セアの“トラウマ的イメージ”なのではないか?ということ。すでに語られている事柄なのかもしれませんが

“ボルタンスキーの示すホロコーストと、死、失われた記憶、そして過ぎ去りし子ども時代との過度な合成物は、死すべき命運一般と特殊な死とを同一視するなかに写真を解消させてしまう、ロラン・バルトの言説における問題の多いアスペクトを思い起こさせる。ボルタンスキーの《暗闇のレッスン》が

はからずもわれわれに教えるのは、ほとんど一般的な写真的記憶とある死者のための疑似礼拝物とを結びつけるバルト的な陶酔をもってしても、一個の自然死と大量死の差異を説明するための空間は開示されがたいということだ”(アンドレア・リーズ Andrea Liss)

同愛記念病院、東京藝大美術館、御徒町で自転車の修理待ち。東京藝術大学 大学院美術研究科 博士審査展の金川晋吾さんの作品は、あれだけで成立させるには、ちょっと不備も多い展示になっているように思いました(継続して父親の作品を見ているという前提があれば別なんでしょうけども)。

「意味」から「存在」へということで、作者である金川さん個人にとって「かけがえのないもの」を、より追求するような構成になっていると拝察しましたが、それゆえに「信仰」(信じるほかない[authorとsitterを結ぶ紐帯や関係性などを])の領域に近づいているようにも感じられました。

例の「信じるほかない」問題は、写真が本源的に抱えているもので、どの写真についても言えるものですが(「表象を持たずに、レフェランだけを持つ特殊な記号」[清水穣さんの1995年の論文より]と表裏一体)、1)この作者がこの対象を撮影した、2)この作者とこの対象には強い関係性がある、その

いずれもが究極的には写真それ自体には内在しないものなので(前者は僅かに例外あり。たとえば撮影者自身が映り込んだ場合など。しかし、であったとしても比較的簡単なアナログ的手法でもそうしたイメージを得ることは可能)、「信仰」を経由せずして「表象としての写真」を観賞することは不可能です。

このとき、作者—対象の紐帯の「信仰」によって、さらに作者—対象の紐帯の「信仰」を強化するループ構造を持つタイプの作品が、私には「まあ、それはそうでしょう」としか判断できず、さらにそれをロラン・バルト『明るい部屋』によって下支えしている(論文は序文しか読めていません)ような体裁を

とっていたのが、ちょっと素朴すぎるのではないかと感じた要因だと思われます。ただ、金川さんと父親の作品について何度か話をしたり、ワークショップにゲストとして来てもらったりして、金川さんが今こうして存在していることと、そのテーマに取り組むこととは切り離せないものである、ということも

一方では理解しているつもりで、結果的には展示をつぶさに観察して、色々と考えるべきヒントはもらいました。くだんの「信仰」のループを、ある情動=感傷・悔悟・思慕等々に解消させない(通俗を回避[並の作家は安易にそこに流れる])よう、細部に配慮がなされていて、私にとってはそこが見所でした

https://twilog.org/n291/date-170411/allasc