Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

Burgin:ThinkingPhotography, Introduction - photographology

 1930年代の始めにはソヴィエトの社会主義的フォーマリズムへの知的、芸術的熱狂がすっかり抑圧されてしまうのだが、それでもなお、この時期のこれら諸概念は、西欧で継続して展開された。1960年代のフランスの「構造主義」の開花は、東からのこの知的潮流から広く滋養を得ている(少なからずローマン・ヤコブソンやツヴェタン・トドロフといった亡命者の物理的存在をつうじて)。ロラン・バルトの初期の『記号学原理』が1964年の『コミュニカシオン』誌に載った際、それには「イメージの修辞学」が付けられていた。それは、彼のもっと長大な論文の企図を写真という問題的領域へと拡張したのである。今では英訳で広く知られているこの後者の論文では(この理由だけで、この論文集には収録されていない)、バルトは、イメージとの関係におけるキャプションを、「投錨地点」や「中継地点」の機能をもつとみなしている。しかし、イメージそのものは、バルトにとっては「コードなきメッセージ」という逆説でありつづけるのだ(『明るい部屋』という最後の著書で彼が強調しつつ回帰する主張)。ウンベルト・エーコは、映画についての長い論文に由来する、短いが影響的な論文で(第2章)、写真イメージには単一のコードは作用していないかもしれないが−均質な「写真言語」は存在しない−、それにもかかわらず、多元的コードが存在し、そのたいていが写真に先行して存在し、写真において複雑な仕方で相互作用を及ぼしている、と論じている。私自身の論文「写真実践と芸術理論」(第3章)は、エーコの洞察をバルトの記号論に統合しようと試みているが、その際に、他のどんな記号学の「古典的な」仕事が、その当時(1975年)の写真イメージに適用できるのかを示してみたい。

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◇ Burgin:ThinkingPhotography, ch3 - photographology

 対象を意味論化し、そしてまた自分の伝達的意図を隠すという人間の矛盾した衝動は、ロラン・バルトの多くの著作での主要テーマである。『神話作用』ではバルトは、マルクス主義に着想を得た、市民社会の集合的表象−写 真、見世物、料理、報道など−への批判を呈示している。市民階級、つまり「名指されることを望まない社会階級」は、自らのイデオロギーを「自然」として−この本では「神話」と呼ばれている−示しているのである。バルトはこの「自然」の体系的な脱神秘化を試みている。「体系的」であるのは、神話が、バルトによれば、伝達の体系、ひとつの形式となっているからである。それゆえ、神話的対象をその実体に基づいて差異区分する試みは重要ではないことになるだろう。「神話的対象」というまさに概念は、それが仕えている体系についての知識なくしては基礎づけられないのだ。だから、「神話には形式的な限界はあるが、実体的な限界はない…世界のいかなる対象も、閉ざされ沈黙した存在から、言語的状態へと、社会による専有に開かれた状態へと移行するのである」。

 バルトが神話的ことば[speech]について与える例のひとつが、フランス軍の軍服を着た若い黒人がまなじりを上げて敬礼している−「おそらく翻る三色旗に注目しているのだろう」−様子を示した『パリ・マッチ』誌の表紙である。バルトはこのイメージの文字どおりの意味は明白だと述べる。それは黒人がフランス式の敬礼をしているということだ。「しかし、素朴であろうとなかろうと、私はそれが私に意味している事柄をよく分かっている。フランスは偉大な国家で、その民は肌の色の区別 なくその国旗に忠誠に仕えているのであり、いわゆる植民地主義と中傷する者にたいしては、いわゆる圧制者に奉仕する際にこの黒人が示す熱意が最良の答えなのだ」。

 文字どおりの意味は、バルトが言うには、神話にとっての「アリバイ」として役立つ。

 「アリバイ」、「回転木戸」、「かくれんぼ」といった、直観を保持するためのこの山盛りの比喩は、お馴染みの戦略である。しかしバルトはこれを越えてさらに、比喩的ではない言い方で意味の生産作用を把握し、神話が個々の現象とは独立した構造的な関係において作用する方法を記述しようとする。この目的のために彼は言語学の提供する図式に目を向けるのだ。

 言語的モデルにしたがった社会現象の構造的記述の形成、これは「構造主義的」戦略とみなされるかもしれない。ここでは、いわゆる構造主義の領野を概観する場所ではない。明らかなことだが、いかなる現象も、それが完全に不定形のものではないとすれば、構造的な観点で記述されるかもしれないのだ。だから「構造」という言葉についての思弁によって得られるべき、構造主義についての洞察はほとんどないのである。事実私たちは、「構造主義はそれに関与しない人々にとってのみ存在する」という意見に同意するかもしれない。だから強調しておくべきなのは、以下に続くのが、構造主義についての記述ではなく、構造主義的分析の一側面 の、ひとつのタイプの記述だということである。とくに、主としてロラン・バルトと結びついた分析タイプ、もっと特定すれば『神話学』、『記号学原理』、『モードの体系』のバルトが記述される。構造主義が1960年代に少なくともフランスではそのような流行を享受したのだから、今ではなおさら、これらのテキストにはほとんど注意を払わなかった人々には、それをまず「時代遅れのもの」として片づける誘惑が大きいものになっている。しかし、他の科学的公準と同様、構造主義的分析の古典的枠組みは、もっと多くを約束する一連の仮説に取って代わられるまでは「危なっかしくも生きている」のだ。バルト自身が述べるように、

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