Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

「ながめる まなざす」@UP FIELD GALLERY(アップフィールドギャラリー)

◎DIVISION-1
相馬泰 西山功一 横澤進一 吉村朗
2010年5月14日(金)〜6月1日(火)
 ・ギャラリートーク 5月22日(土)16:00〜
  出品作家×クボタ タケオ(美術家)

◎DIVISION-2
村越としや 山方伸
2010年6月4日(金)〜6月22日(火)
 ・ギャラリートーク 6月12日(土)16:00〜
  出品作家×藤村里美(東京都写真美術館 学芸員

◎DIVISION-3
荒木一真 箱山直子 南條敏之 湊雅博
2010年6月25日(金)〜7月13日(火)
 ・ギャラリートーク 7月3日(土)16:00〜
  出品作家×小林美香(写真研究者)
http://2010.masahirominato.com/
http://www.upfield-gallery.jp/
[詳細PDF]http://minato.weblogs.jp/2010/Nagameru_Manazasu.pdf
本日、「DIVISION-1」のオープニングです。


◇ ARTISTS | 出品作家 - アップフィールドギャラリー企画展「ながめる まなざす」
http://2010.masahirominato.com/artists-%E5%87%BA%E5%93%81%E4%BD%9C%E5%AE%B6/


◇ TEXT | 企画展に寄せて - アップフィールドギャラリー企画展「ながめる まなざす」

「風景と写真をめぐる今日的状況について」増田玲(東京国立近代美術館主任研究員)

 外界に対して、人はつねに「風景」を見ているわけではない。あらためて外界、つまり私たちをとりまく環境を風景としてとらえるには、距離をとることが必要だ。見るものと見られるもののあいだを切り離し、主体と客体を切り出すという作業をへて、はじめて風景は立ち現れる。こうした作業に、写真というメディアはとてもなじみがいい。主体である撮り手と客体となる被写体のあいだに置かれたカメラは、主体と客体を切り離し、距離をとるという構図を、ほとんど無条件に成立させる。

 カメラを媒介に切り出された「風景」は、それだけですでにひとつのイメージとして成立しているが、そこではまだ、未分化な外界に対して、とりあえずの距離を確保し、ひとつの「見え」が固定されているに過ぎない。それを表象として他者に差し出すには、まだ何かものたりない。写真家が表象行為として風景をめぐるイメージを成立させるには、距離の取り方や視点の設定において、意識的にせよ無意識的にせよ、何らかの選択がなされる必要がある。そこでとりうる選択肢には、歴史的にみて、いくつかの基本的な方向性があったと考えられる。

 まずは景観そのものの見事さ、美しさをイメージとして定着させ、その純度を高めていく方法。次に風景を分析、探査の対象とし、読み解くべきテクストとしてとらえ、新たな視点や知見を提示する方法。そしていまひとつは、切り出された風景をひとつの器として、そこに内面の思いや感情を仮託する方法だ。

 第一の方向性としてはアンセル・アダムズの仕事にその完成型を見ることができる。ヨセミテ渓谷をめぐる一連の作品に代表されるアンセルの仕事は、いわゆる「風景写真」の典型である。第二の方向性は、ルイス・ボルツやロバート・アダムズら「ニュー・トポグラフィクス」の写真家を典型とする。彼らは雄大な自然を好んだアンセルとは対照的に、とりたてて美的とも思えない造成地などの無個性な人為的光景にこそ、レンズを向けて分析し、読み解くべき何かがあると考えた。あるいは写真家本人の意図がどこまでの射程を持っていたかは別にして、ウジェーヌ・アッジェの残した膨大なパリの都市風景写真は、第三者にとってさまざまな読解が可能な、重層的なテクストと位置づけられるだろう。第三の方向性としては、たとえばアルフレッド・スティーグリッツに始まる、「イクィヴァレント(=等価)」の美学が挙げられる。彼らは被写体と内面のあいだにメタフォリカルな関係性を仮構し、風景の描写を詩的なメタファーとして、精神性を象徴的に表象することを試みた。

 もちろん、以上はとてもおおざっぱな分類であり、実際には、たとえば雄大な自然景観を称揚するアンセル・アダムズのヨセミテ渓谷の写真を、地誌的・文化史な視点から読み解くことも可能だし、同様に自然景観の描写を通じたアンセル自身の精神性の表象としてとらえることも可能である。つまり、景観それ自体を美的なものとして描出するか、分析や読解の対象とするか、あるいは内面を仮託する器とするか、これらは決然と分類できるわけではなく、ひとつの写真イメージのなかに複層するそれぞれの要素が、それぞれのバランスをとって現れていると考えるほうがいいだろう。

 さらにもうひとつ、風景と写真のかかわりを考える上ではずせないのは、外界の側に力点を置くにしろ、内面の側を重視するにしろ、それらが定着されるイメージは、外界と内面の接する界面に結ばれているという点である。そこには人間の視覚を相対化する機械の眼としての写真の性質が大きく作用することになる。そうした「写真の眼」の独自性として典型的なのは、1920-30年代のヨーロッパの前衛的な写真表現に見られる、極端な俯瞰や仰角の構図など、三次元空間を二次元化する際に現われるトリッキーな視覚効果である。もちろんそこまで極端でなくとも、写真イメージは、たとえわずかなものであれ、私たちの日常的な視覚に対して、問いを投げかける違和感をつねに内包している。再びアンセルに立ち戻れば、彼は、ゾーンシステムというきわめて洗練されたプリント手法によって、写真という界面における違和感を、美的体験へと転化させたのである。

 ここまで駆け足で確認してきたのは、いわば風景と写真について考えるための、とりあえずの枠組みのようなものだ。しかし風景に対して分析や読解を試みるにしても、被写体としての風景と内面のあいだにメタフォリカルな関係性を仮構するにしても、あるいは、外界と内面の接する界面としてのイメージそのものが発する問いに向かうにしても、写真家たちの仕事はそれほど単純には為されていない。そこでは同時にさまざまな問題系が参照されているからである。

 たとえば今回の出品作家の一人、吉村朗は、外界と内面の接する場としての「風景」に、記憶や歴史という問題系を交錯させる。彼の「まなざし」が見出すのは、判読しがたいほどに複層するテクストの刻みつけられた「風景」である。吉村を一方の極とするならば、湊雅博の仕事はもう一方の極として対置されるだろう。湊は、吉村が写真という界面に招致したような問題系を一切捨象し、風景を成立させるために不可欠なはずの距離すらもミニマルに切り詰めた果てに、それでもなお「風景」が出現しうるかどうかを見届けようとする。この二つの極のあいだに、それぞれの写真家が、それぞれに設定した問題系を参照しながら立ち上がらせた「風景」が布置される。とりあえず今回の展覧会の成り立ちをそのようにとらえてみたい。

 個々の写真家が参照する問題系は多様であり、そこに立ち上がる「風景」もまた多様である。私たちはそれぞれの問題系のありかを注意深く見極めることを求められている。今回の展覧会について語るべきことは、以上に尽きているのかもしれない。しかしながら、2007年以来、四度にわたって継続されてきているこの企画展シリーズの蓄積を考えると、さらにここで確認しておくべきことがあるのではないかと思われる。

 「記憶の位相」(2007年)、「Invisible moment」(2008年)、「Land Site Moment Element」(2009年)、そして今回の「ながめる、まなざす」。これらのタイトルはいずれも、風景と写真をめぐる仕事の現在形という大枠のもとに、参加した写真家たち自身がグループ展を成立させるための対話のなかでつむぎだしたものだという。試みに、ここまでの議論に則して考えてみると、これまでの三回のタイトルは、外界や内面、あるいは参照される問題系をめぐって選ばれた言葉であると解釈できる。それに対して今回の「ながめる、まなざす」というタイトルは、「風景」が立ち上がるプロセスにおける写真家の視覚のモードについて記述する言葉である。そして展覧会のコンセプトが固められていく過程で、「拡張する眺め、まなざしの収束」というタイトル案があがったという。ここには「拡張」と「収束」という互いに逆方向のベクトルをもつ運動性が浮上している。最終案では省略された、この視覚の二つのモードがはらむ逆方向の運動性にこそ、風景をめぐる写真家の営みが直面する今日的な課題をとらえる手がかりがあるように思う。

 風景と写真をめぐるこの企画展シリーズの背景には、私たちをとりまく世界がデジタル・テクノロジーの浸透によって変容し、写真メディア自体もデジタル化によって急速に変化しているという状況があった。現実の空間をグローバルな情報のネットワークが覆っていることが、日常的に実感されるような状況において、写真というメディアを介して、リアルであれヴァーチャルであれ、私たちをとりまく状況に「風景」を立ち上がらせること。今回のタイトルは、そうした試みをめぐって「身体性」というキーワードが浮上してきたことを示唆しているのではないだろうか。

 ネットワークに浸透された日常において、私たちの経験は、ある意味で身体という枠を超えて限りなく拡張されている。しかしそうした経験を重ねれば重ねるほど、結局のところ、私たちの生が身体に限界づけられていることが、なかば無意識のうちに自覚されてきているのではないか。「ながめる、まなざす」という視覚の二つのモードが示唆する逆方向の運動性、絶えず反転しながら振動するような運動性とは、そうした私たちを限界づけている生身の身体の本質である。そしてその運動性こそが、デジタル情報のネットワークの網の目からこぼれ落ちる微細なノイズを感知し、そこからかすかなシグナルをすくいあげることを可能にするだろう。実は写真というテクノロジーは、その局面で、必ずしもデジタル・ネットワークに親和的にふるまうわけでなく、むしろ生身の身体の側に位置しているのではないか。

 今回の展覧会は、そうした風景をめぐる写真メディアの今日的可能性を見究めようとする、写真家たちの現状報告なのである。

http://2010.masahirominato.com/text-%E4%BC%81%E7%94%BB%E5%B1%95%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%81%9B%E3%81%A6/

杉田敦さんと北澤憲昭さんの往復書簡

◎ critico_criticoの日記

女子美】 22年度より始る《芸術表象専攻》 杉田 敦・北澤憲昭 による 二人のcritico(批評家)往復書簡を公開中!

http://d.hatena.ne.jp/critico_critico/

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>>>杉田敦『ナノ・ソート 現代美学、あるいは現代美術で考察するということ』(彩流社) - 版元ドットコム
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080117#p4


>>>杉田敦さんのジェームズ・タレル論「存在としての光──ジェームズ・タレルという視覚理論」より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090518#p2


>>>「対談 杉田敦伊奈英次
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070212#p5


>>>クリティーク杉田敦氏インタビュー
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060313#p7


>>>オルタモダンは関係性の美学ではない? それとも。。。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090312#p4


>>>北澤憲昭『眼の神殿―「美術」受容史ノート』(ブリュッケ)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20100301#p3


◇ 牛馬犬猿頌──動物と人間の境界にかんするノート 北澤憲昭(美術評論家) - web complex
http://www.genbaken.com/contents/essay/kitazawa_01.html


>>>「web complex」更新  …………  アーカイブ『現代美術の最前線』
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20081221#p5


>>>『美術批評と戦後美術』(編纂:美術評論家連盟 発行:ブリュッケ)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20071122#p2

音楽家はどうやって食べているか?

◇ 2010 May 01 #004 - 大友良英のJAMJAMラジオ|KBS京都ラジオ

七尾旅人さんの電話インタビューいかがでしたか?リハーサル途中にシフトチェンジしてのトーク。七尾さんありがとうございました。JAMJAMではこれからも情報提供して行きたいと思います。今回のPodcastはかなり充実した内容になっています。ラジオ放送でのおしゃべりと、Podcastでしか聞けない内容を楽しみください。

http://www.kbs-kyoto.co.jp/audio/jamjam/jamjam_20100430.mp3
http://www.kbs-kyoto.co.jp/radio/jam/
4月30日(金)の放送より。


>>>再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060531#p5) ※引用部分拡大 ※「Jackson」はリンク切れ

■「日本でこういう音楽だけやってても食えない」

アメリカとかヨーロッパとかの海外での反応ってどうですか?
吉田/海外の方がストレートだね。コンサートがやっぱり、日本に比べて盛り上がり 方がすごい。ヨーロッパとアメリカではまた少し違うけど、むしろハコの違い、やっ ぱりハードコアのハコとか、ジャズのハコとかありますよね。ハコの違いで集まる客 層 が違うのでそれによる違いも結構ありますね。
●毎年海外でやる意味ってあるんですか?
吉田/出稼ぎ(笑)。だから、日本でこういう音楽だけやってても食えない。欧米の ライブツアーでRUINSだと二人なんで比較的金にはなるんですよね。あとあんまり行 か ないと忘れられちゃうっていうのもある。
●でも、最初って10年前とかって、最初ってそんなにお金ってもらえなかったんです よね。
吉田/はじめから割とめぐまれてましたねえ。最初はジョン・ゾーンのブッキングで 1つでかいライブがあったんで。他のライブにしても、なんていうかな、こんな音楽 でも、海外から来た人達にちゃんとギャランティを、支払う土壌がある。アメリカな んかは、チャージバックが多いけど。ヨーロッパでは通常のそういう、クラブでやる ライブ以外でも、割とアバンギャルド系のフェスティバルも、ヨーロッパではいっぱ いある。で、市とか国がそういうのに対してちゃんと援助するシステムがある。
●じゃぁ、むこうの方が、
吉田/そう、だから文化的に豊かですねえ。
●じゃあ、やっぱり日本は厳しいのかナ・・・
吉田/うん、こういう音楽でやっていくには日本は厳しい。

[TIME MARKET NET MAGAZINE] 吉田達也インタビューより
http://homepage2.nifty.com/timemarket/inds/010ruins.html
http://homepage2.nifty.com/timemarket/inds/bandfile.html

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20091210#p7

JanJanのブログがスタートしています。

◇ JanJanBlog
http://www.janjanblog.com/


◇ 6月5日「市民記者懇談会in京都」開催のお知らせ - JanJanニュース
http://www.janjannews.jp/archives/3079775.html


◇ 市民の市民による市民のためのメディア インターネット新聞JanJan

『JAN Poli(ジャンポリ)』は『JANJAN Politique TV』の略。政治を透明化するために、政治の現場からニュースを生中継するインターネットTV局です。

http://www.janjannews.jp/

出版関連メモ

◇ ベストセラーの背後に“手買い”? 出版不況でランキング底上げ(Business Media 誠) - Yahoo!ニュース

 「出版不況」という言葉を当コラムで何度も取り上げてきた。書籍や雑誌の売り上げが落ち込む中、出版社や書店は懸命な努力を続けている。小説と漫画原作の執筆を生業としている筆者もこの忌まわしい言葉と日々戦っている1人だ。

 過日、某版元関係者と打ち合わせをした際、“手買い(てがい)”なる業界の隠語に接した。この言葉には、現在の出版不況の深刻さを裏付ける観測が潜んでいた。

 「昨夜は都内◯△店で80冊、今日は午前中に地方の△◯店で90冊売れた。手買いは間違いないのだが、いったい何人のスタッフを動員しているのか?」 ――。

 最近、出版社の編集部や営業部門の間で、ある小説をめぐってこんな言葉が盛んに飛び交っている。出版関係者が注目しているのは、全国チェーンの大手書店が運営する書籍販売に関するオンラインサービスだ。

 このサービスでは、全国の店舗での売り上げ状況、購買者の年齢層、男女の内訳などが詳細に知らされる。編集者は自身が手がけた著作の売り上げ動向をチェックし、営業や販売担当者は、自社作品はもちろんのこと、他社の売れ筋商品を分析する。出版関係社にとっては、なくてはならない重要なツールなのだ。

 冒頭の言葉は、最近発売されたある小説に関するもの。もちろんその中身は、筆者のようなヒヨっ子作家が足元にも及ばない優れたものなのだが、「売れ行き動向が不自然」(某中堅出版社営業担当)なのだという。

 最近は、村上春樹氏の『1Q84』のような大ベストセラーがあり、1つの店舗で1つの作品が100冊単位で売れることは十分にあり得る話。

 だが、件の作品については「売れているのは確かだが、『1Q84』並みの爆発的なヒット作ではない」(別の営業担当者)という。『1Q84』のような怪物級のヒット作のほかは、宗教系やビジネス書のヒット作で、1店舗当たり100冊単位の売り上げを記録することはあるようだが、小説では極めて異例なのだとか。

 ここからは筆者や出版関係者の想像であり、必ずしも事実ではないことをあらかじめお断りしておく。

 件の作品は、著名作者の作品ということで確かに売れている。だが出版不況の最中、かつてのような実売部数は望めない。「最近は出版社が重版に慎重なため、確実に売り上げが立っている証として、手買いを繰り返しているのではないか」(某週刊誌副編集長)という観測がまことしやかに流れているわけだ。

 オンラインサービスを運営する書店、そして件の作品を発売した版元にとっても着実に売り上げが立つ。作品の関係者が実際に手買いを繰り返し、売り上げ実績を作り上げているとしたら、出版不況の最中で懸命にもがいている証だ。

 ただ同作の各種広告には、「重版!!」の文字がそこかしこに載っている。作品自体優れた内容だけに、こうした観測に接してしまうと筆者はげんなりとしてしまう。まして、出版界の内情を知らない一般の読者はなおさらだろう。同作は、各種の売り上げランキングでは現在も上位につけている。【相場英雄】

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100506-00000014-zdn_mkt-bus_all


二玄社自動車雑誌から撤退…『カーグラフィック』新体制に - レスポンス自動車ニュース(Response.jp)
http://response.jp/article/2010/05/10/140141.html


◇ ストリート系ファッション雑誌「nadesico」、5月号で休刊へ - モデルプレス
http://mdpr.jp/topic/detail/333604


◇ 超左翼マガジン『ロスジェネ』最終号(4号) 大澤信亮責任編集号 - 超左翼マガジン『ロスジェネ』
http://losgene.org/sinkan.html


◇ 5/10、駒場東大前のアウトバーン本社前で抗議の宣伝活動 - P団 - フリーター全般労働組合 プレカリアート争議団

クラブカルチャーマガジン「remix」を発行していたアウトバーン社は、組合員に対する給料を3か月滞納し、労基署から是正を指導されるや逃亡、まったく姿も見せません。
この日、料金滞納のため電話が繋がらない事務所に、P団は東京管理職ユニオンのなかまとともに訪問しましたが、確かに事務所の中には誰もいません。
だがしかし、ポストの中には都労委より確実に送付されたはずの郵便物が存在する様子がありません。
すなわち、アウトバーン社は、留守を装いつつも郵便物を定期的に受領しにきているということです。
P団は別フロアに入居する会社に事情を尋ねさせていただきましたが、それによれば「最近荷造りをしていた」との情報。

http://p-dan.freeter-union.org/article.php/20100512013445297
http://p-dan.freeter-union.org/index.php?topic=remix


岩手日報夕刊廃刊 広告半減が影響-マイタウン岩手 - asahi.com

 廃刊を明らかにした11日付の同紙朝刊では「夕刊を統合することは誠に心苦しい」とし、「新聞発行の経営環境は厳しさを増しています」と理解を求めた。新聞代の値上げなども検討したが見送ったという。

 同社は1876年創刊。従業員数は357人で、編集局は約130人。

http://mytown.asahi.com/iwate/news.php?k_id=03000001005120002


日刊ゲンダイが19年ぶりに幸福の科学の広告を掲載 - やや日刊カルト新聞

 1991年、講談社が発行する『フライデー』が、幸福の科学に対する批判的な記事を立て続けに掲載しました。これに対して幸福の科学の信者が講談社を非難するデモや署名活動を行いましたが、抗議活動はこれだけではありませんでした。信者らが講談社の社屋に乗り込み、ハンドマイクで「フライデー廃刊!」「社長を出せ!」などとがなりたてたほか、無関係な別誌の編集部も含めた講談社の各編集部に抗議の電話やFAXを送りつづけました。

 その際に幸福の科学は、勢い余って、講談社とは別会社であり、当時は幸福の科学に関する記事を掲載していなかった日刊ゲンダイに対しても、同様に電話と FAXによる業務妨害行為を行いました。

 この騒動が起こるまでは、幸福の科学出版は日刊ゲンダイにも広告を掲載していましたが、騒動以降は広告を出さなくなっていました。幸福の科学の広報担当者によると、今回の広告掲載は「フライデー事件」以来、19年ぶりとのことです。なぜいきなり19年ぶりの広告を出したのか尋ねると、「広告営業が来たから」(幸福の科学の広報担当者)という、ものすごくわかりやすい回答でした。

http://dailycult.blogspot.com/2010/05/19.html


◇ 読売新聞全国版に『霊感商法』本の広告が掲載!? - やや日刊カルト新聞

 今月5月2日の日曜日、読売新聞全国版の11ページ文化面【本よみうり堂】の記事下に目を疑う広告があった。コスモトゥーワンという出版社が2010年4月21日に発行した書籍『新・家系の科学』、著者は与那嶺正勝なる人物。

 本の表紙には「二万余の調査で繁栄・衰退の法則がわかった!!」「あなたの運命はあなたに対応する先祖で決まる」とあり、新聞に掲載された広告には「家系を支配する縦横の法則」「家系にはクセが」「家系繁栄のキーは女性」等、世界基督教統一神霊協会統一協会/統一教会)が全国各地のビデオセンターや偽鑑定所等のダミー施設で行う『家系図を使った先祖の因縁トークによる霊感商法家系図販売・家系図セミナー受講及びそこから展開する各種物品販売・献金)』の際に使われている言葉が見出せる。

 霊感商法を助長しかねないこの書籍広告掲載について、読売新聞東京本社に『やや日刊カルト新聞』として電話取材をした。

http://dailycult.blogspot.com/2010/05/blog-post_09.html

Here, There, Everywhere, Thatness & Thereness

YouTube - The Beatles - Here,There And Everywhere
http://www.youtube.com/watch?v=8THouU576WY


YouTube - Paul McCartney - Here,There And Everywhere (live!)
http://www.youtube.com/watch?v=QcTQC_vhwT4

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YouTube - Thatness And Thereness_1986.05.29 Media Bahn Live /坂本龍一
http://www.youtube.com/watch?v=eJsTf8ze9EU


YouTube - thatness & thereness/ryuichi sakamoto(@mza-ariake 0714/90-fm)
http://www.youtube.com/watch?v=b8_0m4xnyMU

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YouTube - Momus: Thatness and Thereness
http://www.youtube.com/watch?v=aozeXBTXA14


YouTube - [Ryuichi Sakamoto - san] THATNESS AND THERENESS [musicvideo]
http://www.youtube.com/watch?v=joB2SfLti-4


YouTube - 【HD-高画質】thatness and thereness feat. 高橋幸宏 【トベタ・バジュン】
http://www.youtube.com/watch?v=Dh2SenA12bg


YouTube - Thatness and Thereness (坂本龍一+トベタ バジュン feat.高橋幸宏)
http://www.youtube.com/watch?v=8tkdp_ipfSM


YouTube - Thatness and thereness / Sect Commune
http://www.youtube.com/watch?v=IDXGugfoxDw