Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

08.08. 雑誌2−1 / 08.08. 雑誌2−2 - papery 前田恭二 MAEDA Kyoji - off the gallery

 週刊誌も漫画雑誌もお盆休みで、電車で読む雑誌がない。というわけで「BRUTUS」8月15日号を購入。「ブルータスの写真特集 BOYS' LIFE」を組んでいる。特集の巻頭は近く初台で個展が開かれることになっているティルマンスに会いに、ホンマタカシと取材班がロンドンへ、というインタビュー。ほかにラルティーグやボルツも出てくる、むろん初めて知る写真家も含まれており、さらに心は「少年」ということなのか、野口里佳森本美絵も、という幅広さ。車内で眺めながら、しかし、雑誌のなかで最も印象深かったのは、巻末の方に掲載されている1本の書評・・・というわけで、以下次項。

  その書評は清水穣著「白と黒で 写真と……」(2004年6月、現代思潮新社)を取り上げたもので、評者はライターの橋本麻里という方。大きなスペースの書評ではなく、それについての感想もふと胸をよぎった程度のことなのだが、しかし、長く尾を引くような感じがある。それを説明するには、あらかじめ同著に対する個人的な受け止め方を記してみる必要があるかもしれない。ざっくり言ってしまえば、近年刊行されたなかで際だって鋭い切り口を示す写真批評の仕事ということになる。写真家を語る理論的な枠組みを新たに提示し、更新しており、こうした仕事の恩恵はすでに各論考の初出時に始まり、さまざまに広がっていく性質を備えていよう。例えばの話、正しく理解し得ているとは思えないにせよ、それはここで書いてみたりしているような末端にまで及んでいたりする。恥ずかしながら、二つほど実例を。まず2003年「1224 LOVE」の項で、「スタジオボイス」1月号に載っていた倉石信乃執筆による「タイポロジー」の解説中、ベッヒャー夫妻の「給水塔」が近代産業遺産への審美的なノスタルジーを喚起するものではなく、第三帝国の記憶を再生させる指標性を備え、観者を「負」の歴史や記憶と直面させる政治性を有している・・・という趣旨の指摘を引いたことがある。実はその後、あれは清水さんが前に書いていたよね、と言われてもいたのだが、実際に今回の本に収められた論考「<D>線上のアリア」(初出=「美術手帖」1997年3月号)で、すでに<ベッヒャー・シューレを戦後ドイツという特定の政治的空間と切り離して考えることは不可能である><それにしても、ベッヒャーが対象として選ぶ工業施設、製鉄所や精錬所にたんなるノスタルジックな産業資本主義しか見ないという、多くの批評家たちの無垢さはどうしたことなのだろうか>といった指摘がなされている。不勉強にして1997年の論考を読んでおらず、その数年後にそういう見方もあるのかと思ったという、かなりイタイ話である。  [中略]  こうして書き挙げてみると情けない限りだが、しかしまあ、言説空間には階層性があるわけで、末端のほうでは、こうして批評なり歴史学なり優れた仕事の恩恵を被ることになる事例として率直に受け止めるほかないわけだが、そうした読後感のなかで今回の書評を読んだ、というわけ。その多くはいま挙げた論考「批評の不在、写真の過剰」の紹介に充てられている。その中心はティルマンス論であり、おそらく特集の目玉であるティルマンス訪問記と関連することから書評の大半が割かれたようなのだが、その先に次のような評言が記されている。<個別の作家論については異論もあるが、ガーリーフォトとアラーキーを直接結びつけたことには大いに賛成。ただし彼女たちのゴッドファーザーならぬゴッドマザーであるアラーキーのほうが、おばさん的なしたたかさでは一枚も二枚も上手だけどね>。ここでの賛意がどの点に向けられているのか、戸惑う。もともと長島有里枝が「アーバナート」でパルコ賞を受賞した際の審査員の一人が荒木だったわけだし、ガーリーフォトを成立させた要因の一つは荒木からの直接的な影響だとよく言われていた記憶がある。清水論考は「広告」をキーワードにした指摘を行っているのだが、<直接結びつけた>という意味では、むしろ自明の話に属しよう。だとすれば<異論もあるが>というのは、そうとう広範囲に及ぶのかなと思いもするし、荒木の方が<一枚も二枚も上手だけどね>という言い方には、両者を熟知する側からの批評家への一言コメント、といった感じがある。すごいな・・・と別に揶揄しているわけではなく、そう思うわけで、清水著でも本書評の側でもなく、おやと思った方がおかしいということなのかもしれない。つまり言説空間の階層性というようなことを思っているほうがいまや的外れで、この雑誌に見るような「写真」を主導しているのは評者のような人たちにほかならず、それを書評は映し出しているだけなのではあるまいか、などといまさらながら思った次第。

http://www.pg-web.net/off_the_gallery/papery/2004/08Aug.html#zasshi2-1


◇ 12.24. LOVE - papery 前田恭二 MAEDA Kyoji - off the gallery

 「スタジオボイス」1月号を買ってみる。特集は「I (ハート型、LOVEと読ませるのだろう)PHOTOGRAPHY/写真を変えた宿命のフォト・マスター69」。写真にLOVE・・・みたいな感覚は個人的にはぴんとこないのだけれど、内容はなかなか濃密。なるほどなあと思ったのは、倉石信乃氏による「タイポロジー」の解説で、<見誤ってはならないのは、ベッヒャー夫妻の撮影する、たとえば廃墟になった「給水塔」が、ドイツの第三帝国の記憶を再生させる指標性を備えていることである。それは単に近代産業の遺跡への審美的なノスタルジーを冷徹な客観描写を介して呼び覚ます営為ではない。それらは、近代に内在し今日も根絶されてはいない「過去」の負の遺産を平静に指し示そうとする政治性を有しており、観者を歴史や記憶と直面させるものでもある>とある。ちなみに、この一文は2004年2月に美術出版社から刊行される予定の『カラー版世界の写真史』用の原稿からの抜粋とのこと。注記によれば、この本は、飯沢耕太郎氏の監修で、ほかに大日方欣一、深川雅文、井口壽乃、増田玲、森山朋絵氏といった充実した顔ぶれが執筆しているよし。いま手元にある写真史の本といえば、伊藤俊治『20世紀写真史』、同じ著者による『NHK市民大学 写真表現の150年』だとか、飯沢耕太郎『写真美術館へようこそ』といった感じになるのだが、それらからかなり歳月も経た出版に期待させられる。

http://www.pg-web.net/off_the_gallery/papery/2003/12Dec.html#love


>>>BRUTUS 08/15日号 - 雑誌ネット
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20091002#p5

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>>>+4

>>>「ただし、ここで集中的に論ずるのは

後者のポップに限定される。ただたんに消費生活の「反映」でしかない
ようなポップ・アートならば、あらためて俎上に載せる必要は感じない
からだ。もしそれらについてなにか語るのならば、それら和製ポップの
イメージが、いかに「おいしい生活」を再生産するためのイデオロギー
として機能したかを、社会学的に「広告批評」すれば事足りるだろう。
戦後の日本の美術の貧困を正面から扱おうとするわたしの「暗い動機」
の対象などに当てられた日には、とんだ迷惑にちがいない。」
椹木野衣『日本・現代・美術』より
http://www.amazon.co.jp/dp/4104214019

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060328#p6


>>>清水穣『白と黒で──写真と……』(現代思潮新社)より その2

 別の意味でわかりやすい、つまり消費しやすいのがホンマタカシ『東京の子供』(リトルモア、二〇〇一年)であろう。この人の『東京郊外』は、「スーパーフラット」な東京郊外のウサギ小屋を、美術界で大流行の「タイポロジー」で撮影して日本写真界に持ち込んだ、企画ものであった。七〇年代に荒木経惟が広告の「リアル」に「私」を賭けたのは、広告ではない自我が辛うじて存在しえたからだが、現在の我々にそのようなものはない。だからかつてラディカルな行為も、今は計算ずくの自己プロデュースにしか見えないのである。つまり、ホンマタカシホンマタカシのプロデューサーだということだ。アーティストではなく上手なプロデューサーであること自体は、メジャーを目指して自己に適した手段をとることだから批判されるべき筋ではない。しかし、制作からプロデュースから批評まで自己完結した彼の写真を他人が「見る」必然性がどこにあるのだろう。ステレオタイプの作品には「これは広告です」というメッセージのほか何も写っていない。次作は「東京の女」かと期待していたら「ニューヨーク」であった(さすが)。

▽清水穣さんの身も蓋もないきわめて厳しい論調(メディア芸者的語り口に比して)からすると、

 やはりホンマタカシさんや川内倫子さんの写真は、清水さんの趣味じゃないということでしょうか。

 そういえば、メディアに露出の多い写真家(フォトグラファー? カメラマン?)を

 きっちりと論評するような(少なくとも言うべきことを言う、言いにくいことも言ってしまう)批評家は、

 きまって商業媒体に露出しなくても食べられる人々(それとは別に本業がある)のように思います。

 商業媒体やその周辺でやっていくほかない人々は、

 お得意様をけっして悪く言わないのが特徴です(未来のお得意様になりそうな相手ももちろん含む)。

 なんだか、鎌田哲哉さんの「経済的自立は精神的自立の必要条件である」というテーゼを思い出しました。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051222#p6

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051228#p14

荒木経惟さんはどう見ても「計算ずくの自己プロデュースにしか見えない」のに、嫌みな感じがあまりしないのは何故か?

 そういえば、浅田彰さんは、荒木経惟さんと森山大道さんをまったく認めていませんが……中平卓馬さんは絶賛。

 あと、たしか東京都現代美術館に所蔵されている作品に、荒木さんがホンマさんとよく似たスタイルで撮影した

 ニュータウンの住宅の写真(やや色が濃いめ?)があったように思います。

 現在、東京都現代美術館の常設の最後の部屋(宮島達男さんルーム)に

 ホンマさんの『東京郊外』が展示されています(2〜3点だったと思います)。

 しかし、薄暗い部屋なので光の状態が悪くて

 何だかイマイチでした(色彩が重要なファクターを占めるということでしょうか)。

▽「計算ずくの自己プロデュース」で思い出すのは、ホンマさんと同様に

 日芸日本大学藝術学部写真学科)→ライトパブリシティというルートを経由して

 フリーランス・フォトグラファー(カメラマン)になった

 digi-KISHIN! a.k.a. シノヤマキシン氏(しのやまきしん名義も!)=篠山紀信さんの動向です。

 「ストックフォトに写真を提供」の次はどういった切り込み方をしてくるのでしょうか?

 できれば有能な編集者か出版プロデューサーと組んで、

 『晴れた日』や『オレレオララ』の頃の輝きを取り戻してほしいものです。

▽清水さんは、ホンマさんを完全にプロデューサー扱いで斬り捨ててますが、

 『きわめてよいふうけい』と『カメラになった男 写真家 中平卓馬』の一件なんかが、

 すでに耳に入っていたのかもしれません。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070619#p7

▽しかし、ホンマさんは何かの雑誌で、広告も自分の作品も同じテンションで分け隔てなく撮って、

 作品点数が溜まってきた50代・60代で勝負する(うろ覚え)というふうなことを語っていたので、

 現時点でどう言われようと、あまり興味はないのかもしれません。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070902#20070902fn2

▽先日、展示を見たホンマさんの『東京郊外』の写真は、撮影当時の都市部に住む人々の平均的生活感覚よりも

 ほんの少し先を行くような洒脱さとクールさを醸し出すように撮られているように思いました。

 だから、今の時代の眼で見ると、時代に追いつかれてしまっている部分が容易に感じられて、

 古く見えてしまうのかもしれません。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080520#p3

▽ここに広告という観点を導入してみると、広告写真とはつねに時代の半歩先〜二三歩先を行くものだから、

 『東京郊外』の写真が、撮影された当時の鑑賞者の感覚とベタな広告写真のあわいをゆく絶妙の距離感、

 つまり、ドクター茂木健一郎的に身近にも感じられるけどちょっと先を行っていて、

 でも少々どんくさい部分もあるというふうな半歩先の距離(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070706#p11

 でもなく、セグメンテーションによる戦略的優位を戦術的にはあえて放棄してみせることが

 逆に「カッコイイ」んですこれが! 今は! というような、装われた身振りによる、さかさまの戦術としての

 三歩以上先を行く突っ走り方でもない、その中間を浮遊するかのような距離を成立させていたのだとしても、

 商業主義におきまりの「What's next?」的慣習行動の同調化圧力(同調圧力)によって時代が移り変わって、

 広告写真のトレンド(笑)と後期資本主義下にある人々の生活感覚がそれにひきずられる形で

 次の段階にスライドしていったときに、清水穣さんの言葉を借りれば、人々の心を吸引する広告的な真空度が

 もはや充分ではなくなってしまうというか。

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080522#p2


>>>清水穣『白と黒で──写真と……』(現代思潮新社)より その1

[略] それは、荒木経惟の頃から「下手ウマ」として多様化し、全ての差異を吸収できるようになった広告写真なのだ。だから「私の撮った写真とどこが違うのか」という冒頭の問いは、そこでは「広告写真とどこが違うのか」とずらされ、スナップ写真と広告写真の差異が問題化される。もっとも、この問いが我々を導く先は写真の本質というよりも、現在写真を撮る苛酷な条件にほかならない。「世界は写真だ」は二五年を経て「世界は広告だ」になった。つまりすでに広告写真にならない写真は存在しない。スナップ写真は広告写真よりもノイジーな夾雑物が多く不純なのであり、真空度が充分でない、というふうに差異をつけてみる、とたんに、ノイジーなスナップ写真が広告にされるだろう。後に述べるティルマンス(彼もまた変容した広告雑誌でデビューした)の「戦争」がどれほど困難であり、広告に吸収されてしまわないために厳密な戦略を必要とするかが窺い知れるはずである。

 ところが、若手作家の多くの写真には、明るい午後の叙情というか京王線沿線の日曜日というか、希薄な叙情が満ちている。木漏れ日をまぶしそうに見あげ、春霞のように露出オーバーで、美しく輝く今ここでの生の瞬間を切り取って残したい……人々のなんと多いことか。写真を撮ることで「今このとき」を直ちに「過去」にして「思い出」として所有したがる強迫的な欲望は、「今」を充満させる自己が空っぽであるという事実に由来する。九〇年代以降の世代、それは自己と身体の隅々まで広告にほかならない世代であり、それ以外の自己や身体を知らない。「人間だったらよかったのに」、むしろ内面という商品をあてがわれ続けた昆虫的存在であって、全面的な「おいしい生活」のなかで生まれ、養殖されてきた世代なのである。叙情とはうつろな容器に溜まっていく液体であるから、広告はかならず叙情的であり、叙情的広告こそは若い世代の「私」を充たし養ってきた。自分に正直であるとは、うつろな「私」に「叙情」が溜まるがままに任せるということなのだ。アラーキーの子供たちはアラーキーが戦略的に選択したことを、生来の状態として体現してしまっていると言えるかも知れない。

[P157-158]

荒木経惟さんが、「下手ウマ」とされたのは、おそらく先行する世代である

 VIVO(川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明奈良原一高細江英公)との比較による?

▽しかし、湯村輝彦さん以前に「下手ウマ」(ヘタウマ)という言葉はあったんでしょうか。

 それとも荒木さんが、そう呼ばれた(自称した?)のは80年代以降?

ティルマンスの戦い=勝ち取るべきヨーロッパ的「私」「個」の問題。

杉本博司さんは自分の写真が広告に使用されることを完全に拒否してきた。

▽「僕は描きたいものしか描かないよ」by 奈良美智さん

▽目指すところ次第では、年中5月の春霞→絞り開放、逆光、ハレーション、露出オーバー、タンスグテンという方法もアリでは?

 いや、やっぱ今となっては厳しそうです。

▽「おいしい生活」=西武セゾングループ広告コピー。糸井重里さん作。

 糸井さんの代表作には、「不思議、大好き」「くう ねる あそぶ」「ロマンチックが、したいなあ」

 「じぶん、新発見。」 「ほしいものが、ほしいわ。」 「本当の主役は、あなたです。」

 「おとなもこどもも、おねーさんも」「いまのキミはピカピカに光って」 「僕の君は世界一」

 「いいにおいがします。」 「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」 「私はワタシと旅にでる。」などがある。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E4%BA%95%E9%87%8D%E9%87%8C

▽ある搾取構造の存在? それはどこにでもある?

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080521#p3


※過去の「カネデカワレタカゴノトリ」関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%A5%AB%A5%CD%A5%C7%A5%AB%A5%EF%A5%EC%A5%BF%A5%AB%A5%B4%A5%CE%A5%C8%A5%EA

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20101103#p11

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※過去の清水穣さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%C0%B6%BF%E5%BE%F7


※過去の倉石信乃さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%C1%D2%C0%D0%BF%AE%C7%B5


※過去の前田恭二さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%C1%B0%C5%C4%B6%B3%C6%F3

「2008-01-29 instruction for perception」(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080129#p8)より4項目再録



■[新春企画]アート・ヴュー 2008|写真/深川雅文 - artscape

2007年に記憶に残った書物、論文、発言など
──大山顕石井哲『工場萌え』(東京書籍、2007)
「萌え」が「工場」という公の建築物にまで広がりを見せ、写真というかたちでウェブでリンクを重ねた末に生まれた写真集。しかも、掲載されているイメージは80年代のニュートポグラフィックス風そのもの。そのルーツのひとつであるベルント・ベッヒャーが2007年に逝去した。しかし、翻ってみるとベッヒャーも「工場」を愛していたことはたしかである。「萌え」とは別の仕方で。

http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/focus/enq2008_13.html
「しかも、」「掲載されているイメージ」「は」「80年代の」「ニュートポグラフィックス」「風」「そのもの」「。」


■写真とアーカイヴ――ドイツ写真の現在展を見る――Between Image and Reality(神戸大学文学部 芸術学准教授 前川修)

まず、複数の極の間でドイツ写真を考える必要がある。ドイツ写真の70年代以降の成功には実は、先にあげたシュミットらが活動したベルリンの写真状況、そしてエッセンのフォルクヴァンクシューレを拠点とした主観主義写真、この二つが必要不可欠であった。とくに後者は、主観主義写真全盛のもとでベッヒャーが孤立して活動していた50-60年代とは対照的に、ほとんど省みられることがないのが現状である。また、ドイツ写真における同時代のアメリカ写真の影響(例えばニュー・トポグラフィックス等)も言及されることの少ない問題のひとつである。そして、先に指摘したように、写真が美術、とくに絵画というメディアとどのような関係を取り結んでいるのかという問題、それは、デュッセルドルフ芸術アカデミーという文脈ばかりでなく、――写真が美術として認知されるのが比較的遅かった――ドイツという文脈を考えるうえで不可欠の補助線であろう。


最後にもうひとつだけ、本展のテーマと緊密に関わる観点として、アーカイヴという問題を挙げておきたい。ベッヒャー夫妻の膨大な写真アーカイヴ、そして彼らが撮影の際に同時に調査していた工場写真のアーカイヴ、あるいはグルスキー、シュミット、デマンドが直接的、間接的に流用するメディアにおける写真、さらにはティルマンスが独自のカテゴリー分けをして撮りためている写真アーカイヴ、ルクスが前提にする子どものイメージのアーカイヴ、このように、現実とイメージを媒介しているイメージのアーカイヴという視座は本展のもうひとつの軸になっているのではないだろうか。「現実とイメージの間」、そこに介在する無数のイメージ、これも、写真のそのつどかわりゆく「現在」を現実的に(アクチュアルに)検討する鍵になるかもしれないのである」。

http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/stereodiary81.htm
http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/


■再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20071124#p2
■アアーーカカイイブヴ
◇ papery 前田恭二 - off the gallery

10.18. アーカイブ

 写真・石井哲、文・大山顕『工場萌え』(2007年3月、東京書籍刊)をはじめ、ほかにダムや水門といった産業遺産の写真集が人気だそうだ。人気だということで、テレビその他のメディアで紹介されているのを時折見かける。コンビナートが風景として享受されるようになったのは端的に言って、風景として見ることのできる距離が生まれたことを意味しよう。柳田国男の言葉で言えば「要望なき交渉」、つまり果樹を生きる糧としてではなく眺めるのと同様の心理的な距離が、コンビナートの生産活動や労働との間にも生まれ、風景として眺められ、人気も博すようになった――というわけだが、しかし、それ自体は風景論の公式通りの話に過ぎない。興味を覚えるのは、すべてかどうか、ウェブ上のアーカイヴをもとにした出版が行われていること。デジタル写真の可能性ということが数年前、よく語られていたけれど、パーソナルで、趣味的な画像アーカイブが結局、果実の一つだったのかもしれない。

http://www.pg-web.net/off_the_gallery/papery/main.html


◇ 再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20061013#p4

■たぶん誰もがウェブでの活動をリヒターの「アトラス」を薄めたりちょっとズラしたようなかたちのコンセプトで説明したくもなるのだけれど……
私もある部分では、さして考えることもなく
自分のWebでの活動(このブログ 「練習場[仮]」ではなく
メインサイトのほう http://www.nobuhiro-fukui.com/)を
そういうふうに位置づけていたのですが。。。*1
先日、akfさん(http://akf.readymade.jp/AKF)の考察を読んで、
その段階で思考停止していてはダメだと思った次第。

「写真画像を使ったアーカイヴァルアートって最近いっぱいあるけど、それってどうして?何にみんな魅せられてるの?」という壮大な疑問だった。
それに対して交わされた様々な質疑応答の中で、そうか、アーカイヴァル・アートって、アーカイヴなんじゃなくって、作家が作戦としてアーカイヴ形式をあくまで「偽装」しているんだった、ということに今更ながら気づいた。だからこそ、今後の課題としては、アーカイヴァル・アートをリヒターとかボルタンスキーの比較考察などで収めるのじゃなくて、そういう欧米文化で培われてきた「アーカイヴの歴史」を偽装すらしようとしないアーカイヴァル・アート、気づいたら蹴散らしているようなアーカイヴァル・アートについても考えてみたい。

露光集+「演習発表 その後」(http://d.hatena.ne.jp/akf/20060930#p2)より


■部分的に再録&一部引用を追加(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070227#p3
ミュンヘンのハウス・デア・クンストでアンドレアス・グルスキーが新作展を開催中


※『美術手帖』2005年11月号に掲載されている大森俊克氏のドイツ写真批判
 「ドイツ写真とグローバリズム」を要再読。
 部屋の中をちょっと探したんですが見つかりませんでした。引用する時間もなし。
http://www.bijutsu.co.jp/bt/0511/si.html
http://www.fujisan.co.jp/Product/2196/b/81750/


※深川雅文氏の「サイトグラフィックス考」
http://park14.wakwak.com/~pg-web/log_sg.html


※79 アンドレアス・グルスキー展 ニューヨーク近代美術館 深川雅文 2001/04/19 00:07

現在、ニューヨーク近代美術館アンドレアス・グルスキーの大個展が開催中である。(キュレーターはピーター・ガラシ)期間は3/4/2001-5/15/2001まで。連休中にでもニューヨークに行かれる方は一見の価値があるだろう。カタログは、すでに本として出されており、たとえば渋谷パルコ下のロゴスの店頭に積まれていた。なお、同僚のシュトルートは、現在、日本での展覧会も一段落して休養中とのことだがすでに2年後、アメリカでの大個展の計画が決定したという。メトロポリタン美術館、シカゴ現代美術館などで開催される予定。ところで、杉浦邦恵さんと先月お会いしたときに、グルスキーの展覧会の話題が出た。面白かったのは、グルスキーの展覧会について、先生のベッヒャーが新聞で酷評していたということだ。このことは、ベッヒャーとその弟子たちの仕事の関係をどう評価するかという根本的な問題に深く関わっていると僕は思っている。そのうち、場所を見つけて書くつもりだ。

http://park14.wakwak.com/~pg-web/log1-100.html


※グルスキーの風景 - artshore 芸術海岸
http://artshore.exblog.jp/2535278/


※写真の現在 - ARTOPE
http://artope.seesaa.net/article/9850473.html


※対談 杉田敦伊奈英次

伊奈◆いやもう少し話そうよう。キミは今、西洋が内省して自身の腐敗を見出したけど、日本はそれ相当のことができていないというようなことを言ったけど、ひとつにはそれは、アジアあるいは日本と西欧という視点から見ているというのが問題なのかな。例えば、日本からは本当に死角になっているといってもよいイスラム文化圏があるよね。過激派が頻発させるテロ行為には弁解の余地がないとしても、西欧優位の図式のなかで、精神的な意味で学ぶことは少なくないというか、それこそたくさんある。


杉田●そう、それはテロリズムなどよりも、何気ないことで一気に感得される。例えば、スペイン南端のアルヘンシラスからフェリーに乗ってジブラルタル海峡を渡ってタンジールに入れば、きれいに偶像がなくなる。イスラム世界は偶像崇拝が禁止だからね。だから、コースを逆に辿ってスペインで宗教画でも見た日には、ポンチ絵に見えてしょうがないわけ(笑)。タンジールが政治的に特殊な状況下にあったということもあるけど、今世紀の初頭に、不良ヨーロッパ人はみんなあそこを越えていくわけじゃない?


伊奈◆キミの好きなボウルズも、コースは異なるけどランボーもそういってよいよね?


杉田●そうだね。しかも、これはあまり言及されることはないけど、写真の原型とも言われるカメラ・オブスキュラは、最初バクダッドのイブン・アル・ハイサムという自然科学者によって構想されてるんだ。


伊奈◆そうか、そういう視点から見れば、写真やアートについて評するということ自体がポンチ絵のような気もしてくるよね。ところで、いきなり写真に戻るけど、目の前にある若い女性が撮った山ほどの写真の中には、極めて禁欲的なものがあるような気がするんだ。禁欲的という言葉はおかしいかもしれないけど、例えばドイツではベッヒャー夫妻のタイポロジーのようなものには、ものすごく理性的にコンセプトを捉えるという一種の禁欲性がある。もちろん、それとはかなり趣の異なるフランス的な写真は、人間というものを中心に据えて、理性的過ぎないようなかたちで、別の抑制が効いている。彼らはそれを意識しているのだけれども、ここにある写真を見ていると、無意識のうちにさまざまな抑制が効いてしまっているような気がする。


杉田●ベッヒャー夫妻の写真は、ある意味では語りやすい。つまり、いまキミが理性的にコンセプトが練られているというようなことを言ったけど、そうしたコンセプトとか方法に関しては、少なくとも写真そのものについて語るのよりはたやすいんだよ。


伊奈◆コンセプトあるいは方法論的に特化しているという意味では、ベッヒャー夫妻の写真には写真的な快楽というのはまったくないのかもしれない。これは、フランス人のキュレータも同じようなことを言っていた。で、フランスは、そういったコンセプチャルなものだけであることから距離を置くために、身体性とか行為とか、現場というようなものに、より大きな意味を見出そうとする。


杉田●だけど、それがそれでまた、ドイツとは異なる形での不自由さを感じさせる。コンセプチュアルなものに溺れないために、それを突き詰めないようにするんだけど、それが微妙にブレンドされた程度でもと求められていて、外から見ているとその辺は不自由な感じがするわけ。そういう視点から見ると、今度はベッヒャーでさえコンセプトに関してはより自由だったのかなとか思えてしまったりする。彼らの弟子達になると、もう完全に快楽主義的なところさえある。


伊奈◆あるある。だってグルスキーなんてさ、フォトショップをあれだけ使って、もうあれはちょっと一種の工芸にも似た作業じゃない? 最近では、クリエティヴなものを感じないと、同じベッヒャーの弟子でさえ言うよね。何か自分がきれいなものをつくりたいというところで、本当に臆面もなくのめり込んでいる感じがするんだよね。工芸作品というか、平面構成をどうするかということだけへの拘りになってきてるよね。そういう意味では、ものすごく快楽主義的な感じがする。そして、その源にはやっぱりベッヒャーがいる。つまり、ベッヒャー夫妻の場合は堅苦しい不自由さだけが見えてたけど、ベッヒャーの弟子達を通して、ベッヒャーにもそういう類いの快楽があったんじゃないかというところまで見えてくる。


杉田●うん、それは言えると思う。それに対して、この女の子達の写真に戻ると、彼女達はHIROMIXとかによって、自由な写真というか、あんなものを撮ってもいいんだというようなことを教えられてた気になっているわけだけど、でも極めて不自由だよね。というのは、何か自分の生活のリアルな暗部というか、恥部というか、それを見せられなくなってしまっている。マイナスな部分を開けっぴろげに見せるという素振りを見せていても、ワイルドな感じだったり、スピード感があったり、グレてる雰囲気みたいな、ある意味ではカッコイイ虚構のストーリーになってしまっている。これは、かわいかったり美しかったりするものしか撮らないのと変わりない。さらに言えば、花鳥風月。これってある意味の去勢だとも思う。


伊奈◆そうだね。写真学校の18歳くらいの若者達もそうだよ。日常の風景ということで撮らせると、クラブの写真とか、60年代ぽかったり、カンウター・カルチャー系の写真をすごく模倣するわけよね。だから内実というか、彼等のリアリティというのは何も写ってこないわけ。そういう場所に出かけたり、そういう場所が好きだったりするというという一面は確かにあるのかもしれないけど、でも、何かすでに先行する理想的なイメージがあるような気がする。本当の部分は、つまり、ワイルドでも悪ぶってもいないような、マジでダサイ部分は隠蔽されちゃう。どうして隠蔽されちゃうんだと思う?

http://www005.upp.so-net.ne.jp/eiji-ina/files/taidan.html
2000年に行われた対談より


*1:「Webにアップするものは、展覧会で使うか使わないか微妙なカットです。あるいは、何かひっかかりがあって、その理由が自分でもわからないものです。何度も見直して自分で客観的に検討するために、Webにアップするようにしています。無条件で展覧会で使いそうなカットは、それとは別に寝かせておきます」(Every Sunday──福居伸宏 [Web写真界隈インタビュー記事より] http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto/2007/04/05/5996.html

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20100401#p3)

■大森俊克さんの「ドイツ写真とグローバリズム」より



※抜粋の掲載は終了。2013.09.22


以上、「美術手帖」2005年11月号より。
あまり語られることのない角度から、いわゆる「ドイツ写真」に光を当てた
とても重要な論考なので、一度は原文を読んでおくべきだと思います。
http://www.fujisan.co.jp/Product/2196/b/81750/
http://www.bijutsu.co.jp/bt/0511/si.html

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◇ 大森俊克『Basic Action マーティン・クリード論』
http://www.hiromiyoshii.com/jp_site/publications/basic.html

日常に忍び足で介入する様な作品で知られるマーティン・クリードターナー賞受賞作家でもある彼の日本での初個展にあわせて出版された、大森俊克によるマーティン・クリード論。90年代を定義するニコラ・ブリオーの「関係性の美学」とクリードの作品との対比や、60年代のコンセプチュアルアート、特にブルース・ナウマンから続く文脈でクリードの作品が解説される。もっとも、クリード本人は、「(ナウマンは)好きですよ。コーヒーもドーナツもね。食べるのが好きなんです。大切な事ですよ」(本文より)と素っ気ない。
サイズ:15 x 21センチ 98ページ モノクロ テキスト:日本語+英語

http://www.utrecht.jp/genre/?c=67&g=3&o=0&s=0
大森俊克さんの単著。
オススメです。