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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

戦争画(せんそうが)とは - コトバンク

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説


戦争画
せんそうが


戦争を主題にした各種の絵画。大別して、〔1〕戦闘場面を描いたもの、〔2〕戦争に参加した英雄や軍人を描いたもの、それに、〔3〕戦争による被害を描いたもの、の3種となる。第一のものでは、歴史画として扱われる作品もある。
 古代ギリシアやローマの浮彫りに先例がみられるこの主題は、ルネサンス以後、多くの画家によって一種の歴史画として描かれており、ウッチェロの『サン・ロマーノの戦い』、アルトドルファーの『イッソスの戦い』、レオナルド・ダ・ビンチの『アンギアリの戦い』などにおいて形式を整えた。その後、ルーベンスの『アマゾンの戦い』、ベラスケスの『ブレダの開城』、メソニエの『1814年』、グロの『エイローのナポレオン』を経て、さらにドラクロワの『キオス島の虐殺』において頂点に達する。
 戦争画は、単に戦闘の場面を描写するだけではなく、その惨状を暴露・告発する視点にたつことで近代的形態をとるに至るが、その源流としてプーサン、ドゥッチオ、ティントレット、ブリューゲルらの「嬰児(えいじ)虐殺」のテーマによる諸作をあげることができる。ジャック・カロの銅版画『戦争の悲惨』、ゴヤの連作銅版画『戦争の惨禍』、同じくゴヤの油彩画『1808年5月2日』と『同5月3日の銃殺』に発する人間主義的な戦争批判の作品は、マネの『マクシミリアンの処刑』やアンリ・ルソーの『戦争』を経て、現代作家の諸作に、より鮮明な形で結実している。ドイツ表現主義の画家をはじめ、シャガール、ムーア、ミロたちにも注目すべき作品があるが、ピカソの『ゲルニカ』『朝鮮の虐殺』『戦争と平和』は、20世紀における最大の成果ということができよう。
 日本でも中世の絵巻の一群『平治(へいじ)物語絵巻』『後三年合戦絵詞(えことば)』『蒙古(もうこ)襲来絵詞』などにこの主題が表れて以来、さまざまな形で描かれてきたが、歴史画的な傾向が強い。また江戸時代の錦絵(にしきえ)には、過去の武将や戦闘を復原する武者絵という大衆娯楽的な形式が生まれている。近代以降には、歴史画として、また相次ぐ戦争の機会に現代作家による戦争画としても描かれる。とくに第二次世界大戦中には多数の作家がその制作に積極的に参加した。藤田嗣治(つぐじ)、宮本三郎、小磯(こいそ)良平らの諸作が記憶されるが、近代絵画の一領域を形成するほどの芸術的成果を生んだとは考えられない。[瀬木慎一

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◇ Paolo Uccello - Google 検索
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シェイクスピア・アンド・カンパニー書店 - Wikipedia

シェイクスピア・アンド・カンパニー書店( - しょてん)は、パリ5区、セーヌ川左岸にある書店。本の販売だけでなく、1万冊の蔵書を持つ英語文学専門の図書室も併設している(閲覧のみ)。この書店はまた無一文の若い書き手に宿を貸すことで知られており、「タンブル・ウィード」の愛称で呼ばれるこれらの若者は毎日数時間、店の手伝いをすることで食い扶持を得ている。現在の書店は、第二次世界大戦期まで存在した店の名を襲名した二代目に当たる。

初代「シェイクスピア・アンド・カンパニー」
初代のシェクスピア・アンド・カンパニーは、ニュージャージーから移住してきたアメリカ人女性シルヴィア・ビーチによって1919年に開かれた[1]。場所は当初はデュプイトラン通り8番地で、1921年5月にオデオン通り12番地に移り、以後1941年の閉店までこの場所にあった。この店は書店であると同時に貸し出しの可能な図書室としても機能しており[2]、扱われる書物はビーチ自身の鑑賞眼を反映した洗練されたものであった。
シルヴィア・ビーチが店主を務めた初代シェイクスピア・アンド・カンパニーは第二次大戦期まで、パリにおけるアングロアメリカン文学とモダニズム文学の中心地であり、アーネスト・ヘミングウェイエズラ・パウンドスコット・フィッツジェラルドガートルード・スタインジョージ・アンタイル、マン・レイ、そしてジェイムズ・ジョイスなどがこの書店で多くの時を過ごした。シェイクスピア・アンド・カンパニーは、ヘミングウェイの『移動祝祭日』で店の常連たちとともに繰り返し言及されている。この店の愛顧者は、D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』のように英米で発禁になった書物も手に入れることができた。
シルヴィア・ビーチのシェイクスピア・アンド・カンパニーは1922年、アメリカ合衆国とイギリスで発禁処分を受けていたジョイスの『ユリシーズ』の最初の出版元となり、以降の『ユリシーズ』の続刊は「シェイクスピア・アンド・カンパニー」のインプリントの元に出版された[3] 。
オデオン通りのシェイクスピア・アンド・カンパニーは1941年12月、第二次世界大戦中の枢軸国によるフランス占領のために閉店した。伝えられるところでは、ドイツ人士官にジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の残された原稿を渡すことを命じられ、これを拒否したために閉店を命じられたのだという。オデオン通りにあったこの店は以降二度と再開することはなかった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%BC%E6%9B%B8%E5%BA%97


◇ 一度は行ってみたい文学好きの聖地『シェイクスピア・アンド・カンパニー』 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140724355356935201


◇ 212夜『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』シルヴィア・ビーチ|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0212.html

ガートルード・スタイン - Wikipedia

ガートルード・スタイン(英: Gertrude Stein、1874年2月3日-1946年7月27日)は、アメリカ合衆国著作家、詩人、美術収集家。美術収集家として知られるスタイン兄妹の一人で、パリに画家や詩人たちが集うサロンを開いていたことでも知られる。そこに集まる芸術家たちと交流する中で、現代芸術と現代文学の発展のきっかけを作ったともいわれている。

1920年
1920年代、フルリュース通り27番のスタインのサロンは、その壁が前衛美術で覆われ、当時の偉大な作家達を惹き付けた。その中には、アーネスト・ヘミングウェイエズラ・パウンドソーントン・ワイルダーおよびシャーウッド・アンダーソンがいた。スタインはこれら海外在留のアメリカ人作家の何人かの前で「失われた世代」という言葉を最初に使ったとされているが、少なくともこの言葉に関しては3つの逸話がある。2つはヘミングウェイであり、もう一つはスタイン本人によるものである[74]。1920年代にスタインは作家のマイナ・ロイと友達になり、その友情は終生続いた。スタインは魅力があり、雄弁で快活だったので、大きな友達の輪ができ、それがスタインを疲れを知らない者にした。その文学や美術に関する判断は高度に影響を与えるものだった。スタインはヘミングウェイの相談相手となり、ヘミングウェイの息子が生まれた時は名付け親になってくれるよう依頼された。1931年の夏、スタインは若い作曲家で作家のポール・ボウルズにタンジールにいくように助言した。そこはスタインとアリスが余暇を過ごす所だった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
メモしたい逸話が満載。

FIAT MODES: あなたの所有する風景

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あなたの所有する風景
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棘のついた植物のある風景
観光客の訪れる風景
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被害を受けた風景
食べ物を生産する風景
シュルレアリスム絵画のような風景
家族と暮らした風景
広告で見る風景
道徳的内容のある風景
スモッグに満ちた風景
政府に帰属する風景
夜ほんとうに暗くなる風景
アースワークになった風景
あなたの性交する風景
価値ある鉱物を有する風景
水を必要とする風景
鉄道と車道のある風景
歌によって創られる風景
過度に規定される風景
他の惑星のような風景
古代文明の痕跡を示す風景
あなたを狂気にする風景
—Lewis Baltz

http://fiatmodes.blogspot.jp/2014/11/blog-post_27.html
倉石信乃さんのブログより。