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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

シェイクスピア・アンド・カンパニー書店 - Wikipedia

シェイクスピア・アンド・カンパニー書店( - しょてん)は、パリ5区、セーヌ川左岸にある書店。本の販売だけでなく、1万冊の蔵書を持つ英語文学専門の図書室も併設している(閲覧のみ)。この書店はまた無一文の若い書き手に宿を貸すことで知られており、「タンブル・ウィード」の愛称で呼ばれるこれらの若者は毎日数時間、店の手伝いをすることで食い扶持を得ている。現在の書店は、第二次世界大戦期まで存在した店の名を襲名した二代目に当たる。

初代「シェイクスピア・アンド・カンパニー」
初代のシェクスピア・アンド・カンパニーは、ニュージャージーから移住してきたアメリカ人女性シルヴィア・ビーチによって1919年に開かれた[1]。場所は当初はデュプイトラン通り8番地で、1921年5月にオデオン通り12番地に移り、以後1941年の閉店までこの場所にあった。この店は書店であると同時に貸し出しの可能な図書室としても機能しており[2]、扱われる書物はビーチ自身の鑑賞眼を反映した洗練されたものであった。
シルヴィア・ビーチが店主を務めた初代シェイクスピア・アンド・カンパニーは第二次大戦期まで、パリにおけるアングロアメリカン文学とモダニズム文学の中心地であり、アーネスト・ヘミングウェイエズラ・パウンドスコット・フィッツジェラルドガートルード・スタインジョージ・アンタイル、マン・レイ、そしてジェイムズ・ジョイスなどがこの書店で多くの時を過ごした。シェイクスピア・アンド・カンパニーは、ヘミングウェイの『移動祝祭日』で店の常連たちとともに繰り返し言及されている。この店の愛顧者は、D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』のように英米で発禁になった書物も手に入れることができた。
シルヴィア・ビーチのシェイクスピア・アンド・カンパニーは1922年、アメリカ合衆国とイギリスで発禁処分を受けていたジョイスの『ユリシーズ』の最初の出版元となり、以降の『ユリシーズ』の続刊は「シェイクスピア・アンド・カンパニー」のインプリントの元に出版された[3] 。
オデオン通りのシェイクスピア・アンド・カンパニーは1941年12月、第二次世界大戦中の枢軸国によるフランス占領のために閉店した。伝えられるところでは、ドイツ人士官にジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の残された原稿を渡すことを命じられ、これを拒否したために閉店を命じられたのだという。オデオン通りにあったこの店は以降二度と再開することはなかった。

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◇ 一度は行ってみたい文学好きの聖地『シェイクスピア・アンド・カンパニー』 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140724355356935201


◇ 212夜『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』シルヴィア・ビーチ|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0212.html