Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再々録:写真の権利について(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060118#p2)

批評家、キュレーター、詩人の倉石信乃は、
『反写真論』のなかで《写真の権利について》
という章を立てていました。
そこで語られていた作家は、金村修吉増剛造、権富問です。
もう一度、読み直すべきですが
そこに金村修が入っていたことから、
「写真の権利」という言葉がどういう意味を持つのか、
今なら何となくわかるような気がします。


なぜなら、倉石信乃が使った章立ての見出しの言葉が、
蓮實重彦松浦寿輝論《言葉の「権利」について》を
下敷きにしていることに、最近になって気付いたからです。


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「権利」なしに書くものたちが期待するのは、もっぱら「才能」である。であるが故に、
そこでは退屈さとめぐりあうことしかないだろう。あらゆる人にほどよく備わっていた
りいなかったりする言葉の「才能」の分布が、詩の世界にも等しく認められるというだ
けのはなしだからである。いっぽう、松浦寿輝は、「才能」などには背を向け、断固と
して「権利」によって書く。それが育ちのよい不遜さとでもいうべきものとなって、あ
る種の孤立を彼に課すことにもなるだろう。だが、いうまでもなく、読む感性をいやお
うなしに刺激するのは、「権利」によって書かれた言葉に限られている。


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「才能」で言葉を綴ろうとするものたちに欠けているのは、記号としての単語なりその
連なりに向けて、音としては響かず、文字としては瞳に映らぬささやかな記号を差し向
けようとする気遣いである。言葉が言葉であろうとする「権利」などは意に介さず、彼
らはただ言葉を操り、その操作に屈服するかのような言葉の配置を目にして、それがお
のれの「才能」のあかしだと錯覚する。それが、いまあたりに書き継がれてゆくほとん
どの言葉の蒙る存在論的な不幸なのである。


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以上、現代詩文庫『松浦寿輝詩集』所収
《言葉の「権利」について》より抜粋。


倉石信乃は『反写真論』のなかで、
《写真の権利について》という言葉について
とくには言及していなかったように思いますが、
倉石にとって上記3人の写真作家、金村修吉増剛造、権富問は、
「写真の権利によって写真を撮る」作家だということでしょう。


蓮實重彦は、こうも綴っています。


「言葉に向かって、松浦寿輝は、
あなたは言葉だと、いつまでもつぶやき続ける」


松浦寿輝は、なおも言葉に向かって、
あなたは言葉だと執拗につぶやき続ける事をやめない」


つまり、写真に向かって、あなたは写真だと、
いつまでもつぶやき続けるような態度こそが、
「写真の権利によって写真を撮る」ような作家の、
資質なり、作家性なり、だということでしょう。


ここで蓮實の言葉を借りるとするならば、
「いうまでもなく、見る感性をいやおうなしに刺激するのは、
権利によって撮られた写真に限られている」ということです。


やはり、作者の側の権利など放棄し、
写真の側の権利に従うような態度こそが、
写真作家に求められるもののような気がしてなりません。
いまのところは。


倉石信乃『反写真論』(オシリス
http://www.osiris.co.jp/pl06.html
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◇ 現代詩文庫『松浦寿輝詩集』(思潮社
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