Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

国際会議 ユビキタス・メディア――アジアからのパラダイム創成 - les livres lus au clair de la lune

 続いて蓮實さんの話。これはきわめて明快。彼はいつも単純なことしか言わないのだ。要約してみよう。

 ここで蓮實が提示するのは「トーキー映画はサイレント映画の一形式である」という仮説。つまり映画というのは、現在のトーキーでも映像と音声を同時に記録できるものではない。フィルムには映像を、磁気テープには音声を収録し、両者をシンクロさせて、上映するものにすぎない。だからトーキーといえども、それはサイレント映画を上映し、その側でテープレコーダーを再生しているにすぎないというのだ。この仮説が述べているのは、映画における音声の著しい従属的身分である。そもそも映画を撮影するキャメラは高速でモーターを回転させるため、大きな駆動音を立てる。この駆動音は撮影現場で役者の発するセリフを収録する際に大きなノイズとなる。また、音声はマイクで収録されるが、そのマイクは絶対にキャメラのフレーム内に存在してはならず、照明によって影が生じる位置にあってもならない。だから音声はつねに映像に対して従属している。これは現在にいたるまで基本的にはかわらない。だがディジタル・ヴィデオによって映画を撮る監督が出現してきている。そのなかには先鋭的な映画作家と呼びうる、ペドロ・コスタ青山真治という名前も存在する。彼らがディジタル・ヴィデオで撮影した映画は、はたして依然サイレントの一形式であるのか・・・。ところで、「トーキー映画はサイレント映画の一形式である」という仮説は我々になにを教えるのか? それは映画における表象不可能性の問題への一つの疑義である。つまりランズマン対ゴダールによる「アウシュヴィッツの表象不可能性」論争(およびその代理戦争である、ジェラール・ヴァイクマン対ディディ=ユベルマンの論争)において決定的に欠けているのは、音声である。彼らが表象可能/不可能と述べるとき、そこで念頭におかれているのは画像・映像であり、音声ではない。アウシュヴィッツガス室で駆動していた装置の音、ユダヤ人たちの阿鼻叫喚の問題はどうなるのか? それは広島でも9.11でも変わらない。9.11の報道映像において決定的に不在だったのは音声である。映像と音声を同時記録できるはずのディジタル・ヴィデオがとらえていたはずの光景に、音声は存在しないのだ。したがって、21世紀の最初の年におこったこの出来事は、依然、サイレントの20世紀に属しているのである。

 言われてみれば実に当然のことだが、このような指摘をした論者はなかっただろう。アドルノ&ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』、デリダ以降の音声中心主義批判、そして表象不可能性の論争。これらを一直線に結べばおのずと出てくるはずの議論だが、こういう単純なことを、あの馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しい(そのことに本人も大いに自覚的である)独特のレトリックで、さりげなく述べてみせる蓮實重彦は(ハスミ虫とよばれるエピゴーネンたちの挙動がいかに愚劣であるといっても、それは蓮實の責任ではない)やはりすなおに偉大だと言ってよいと思う。

http://d.hatena.ne.jp/clair-de-lune/20070713/p1



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