Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060205#p5)

人間性のにじみ出るようなざっくりと優しい風合いのなかにも何処か凛とした厳しさが〔中略〕よってつくり出される則天去私の芸術(2005年9月のメモより)
 人間性のにじみ出るようなざっくりと優しい風合いのなかにも何処
か凛とした厳しさが通っている、手の温もりを残した不規則な形はか
けがえのなさを表現し、神聖なる窯の炎によってつくり出される則天
去私の芸術……たいていの陶芸作家のつくるものは、この程度の言葉
(全部意味不明)のヴァリエーションに程よく納まってしまう。要す
るにそれが「焼き物らしさ」であり、そして凡庸な作家ほど「らしさ」
に弱いものなのだ。
 この「焼き物らしさ」が病膏肓に入ると、大地への回帰、豊饒なる
自然などと言いだし、陶芸のオブジェを作りはじめる。 〔中略〕 
縄文だの卑弥呼だのと、作家の軽薄な思いこみと誰でも知っている歴
史豆知識が合体したような鈍重さ。あるいは土とか自然とか、とって
つけたようなエコロジー。ひとことで言えば、頭の悪い評論家の徒な
饒舌に奉仕してしまうだけの粗大作品がほとんどなのである。もちろ
ん、個々の作家の良心を疑う理由はないので、これはジャンル全体が
罹っている病気のようなものではないだろうか。そしてその病根は比
較的はっきりしている。


清水穣『永遠に女性的なる現代美術』(淡交社刊)より
http://www.amazon.co.jp/dp/4473018865



この治癒し難き宿痾は、清水穣がかなり小馬鹿にしながら
徹底的に批判している「現代陶芸」という狭い表現分野だけに、
蔓延しているものではないでしょう。


この批評をテンプレートにして、
いくつかの語句を書き換えるだけで、
そのまま写真の世界にもあてはまるだろうし、
もちろん他のジャンルにもあてはまりそうです。
また、メディアから日々垂れ流される評言にも
こういった文脈による価値のマニピュレーションが、
かなり多く見受けられるような気がします。


そういう「らしさ」こそ批判されるべきものなのは明白ですが、
やはり相変わらず “ ぽさのアート ” とでもいうべき表現が
あふれかえっているように思います。


以前にも、ここに書いたことがありましたが、



既存のイメージを
首尾よくなぞることが
できたからといって、
そんなことに大きな価値は
あるのでしょうか?


なぞることが
上手だからといって、
その人なり、その行為なりに、
作家性や創造性は
あるのでしょうか?



ということだと思います(※)。


当然ながら、この発言は発言者である僕自身に向かって、
今まさに、鋭く突き刺さっているところなんですが。。。


たぶん残された時間は、あと30〜40年ほど。
とにかく撮り続けるほかありません。


※「らしさ」を「らしさ」として
 露悪的に提示することに意義がある場合は除く。