http://www.digiart.tv/
http://homepage3.nifty.com/ginken/g3/coming/
中原浩大さんに初めてお目にかかったのは高校時代、倉敷のデッサン教室だった。小川信治さんとは大学時代、雑誌の新進作家対談だった。袴田京太朗さんとは助手時代、彼の初個展会場だった。今回のアート企画では、いまだ紙媒体と、それ以上に噂によって、作家たちが互いに敬愛しあっていた80年代、私がアフリカに旅立つ前夜に出会った3名のアーティストたちに〈非作品〉を依頼した。
中島 智(武蔵野美術大学/芸術人類学)
●題名 「outlet ――非作品 によるブリコラージュ」
●作家 中原 浩大
小川 信治
袴田 京太朗 (依頼順)●会期 2008年5月5日(月)から同月18日(日)まで
開廊 14:00〜20:00(最終日は18:00まで)●場所 銀座芸術研究所 ; Ginza Art Laboratory
東京都中央区銀座7−3−6洋菓子ウエスト2F
TEL 03-5537-5421●企画 中島 智
●主催 銀座芸術研究所 ; Ginza Art Laboratory
http://www.digiart.tv/●ディレクター 地場 賢太郎
【企画趣意】
* 作品とは〈痕跡〉である
作品というものは、その可視性によって記号-表象で捉えられてしまいがちであるが、実際にはその〈見えるもの〉は〈見えないもの〉との均衡において成り立っている。
すなわち、作品とは喩えれば「先ほどまで他者が住んでいた部屋」のようなものである。来訪者はそこに入るとき、部屋に放置され布置されている物々を記号としては見ない。それらは痕跡であり、そこでは〈見えるもの〉を通して〈見えないもの〉を推論していく徴候知が働きはじめる。* 徴候を読むアーティスト
徴候(sign)とは、その語源であるギリシア語(sema)においても「割り符のようにつねにその半分を欠いているもの」という原義説があるようだ。それはもとより世界を徴(しるし)や痕跡と見立てて、見えないものを出で来たらすこと(テクネー)であり、隠れたものを露わにすること(アレーテイア)である。
アーティストたちの制作プロセスには、古来、こうした〈見えるもの〉のなかで〈見えないもの〉を見えるようにする作法がつねに認められる。* 無意識のアウトレット
アーティストのアトリエには、いまだ文脈をもたず記号化もなされていない「徴」がどこからともなく蒐集され、散在している。それらを仮に〈非-作品〉と呼んでおこう。壁にとめられたメモや切り抜き、手慰みのドローイングや野帖に記しただけの構想、捨てないでおいた造形物や飾り物、気になって撮ってみた写真…など。
これらの〈非-作品〉たちは、すでに作家自身のなかで自己消費された、あるいは、過去(もしくは今後)の「作品(痕跡)の痕跡(もしくは徴候)」として位置づけうる、無意識的なアウトレットなのである。* 出品作家について
今回の企画に参加していただいた小川信治、中原浩大、袴田京太朗の各氏については、ここであらためて紹介する必要はないであろう。彼らは共通して80年代から精力的かつ真摯に、自らが自らをこえて見るための探求と制作を行なってきた。
作品(プロジェクト)として形成されるまえに消尽されたアイデアの記録や、私的に作られたけれども〈作品〉として表にでる必要を感じなかったものを展示してみたいという、私の申し出は、それが〈見せるため〉の作品ではないがゆえに当初は「難題」と評されたが、「自己分析の機会」とも受け取ってもらえた。*「作品」の彼岸
冒頭にループするが、作品とは代理-表象(意味関係)でできているものではない。作品という〈見えるもの〉は、その向こう側に広がる他者の領域、そして作者自身でさえ意図できないような無意識(欲望)のネットワーク、もしくは神話的な地平へと連接されているものなのである。
末筆になるが、私のいう〈outlet〉的なるものに何らかの可能性を見いだしてくださった3名のアーティスト諸氏、そして主催者としてバックアップをいただいた地場賢太郎氏に心から感謝を申し上げたい。また、この企画がひとつの契機となって、彼らの素晴らしい作品に対する読み(踏み越え)がさらに深められていくことを期待したい。(中島 智)