例えば。
ジャック・デリダが現前の領域における存在の意味の限定としての西洋形而上学は、ある言語学的な形式の支配として生み出される。この支配の根源を問うことは(中略)私達の歴史を構成するものについて、超越論性そのものを生み出したものについて問うことである。 (『グラマトロジーについて』)
ということを書くとき、このとき要はデリダは「中野の次は三鷹に停車」と言っているのである。
すなわち、ある路線が抱えてる矛盾や問題点を解消するために登場したのだが、その一方で新たな矛盾を抱え込むことになってしまったとか、初めは違っていたが年を経るにしたがって同じような路線になってきた、とか。
いわゆる「ニューアカ/ポストモダン」思想の解説書というのは、多くは「中央線快速は、東京始発の場合は中野に停まるが新宿始発の場合は中野には停まらない」とか「中央特快と青梅特快の違いは国分寺駅に停車するかどうかだけだが、後にどちらも国分寺に停まるようになったので実質的には違いはなくなった」とか、そういうことが書かれているのである。
人文科学系の大学生・大学院生のブログなんかで、グローバリゼーションやブッシュ政権の批判や東浩紀・宮台真司etcの悪口や著名ブロガー同士の揉め事については無闇と勇ましく何千字ものエントリーをアップするのに、自分の身辺雑記や日常生活の日記になると、とたんに愚痴と弱音とバイト先の悪口ばっかりで、コイツ自分の人生よっぽど退屈でつまんねぇんだろうな、その数千字のエントリーに使う労力と時間を卒論や院試やレポートの勉強に費やせばいいじゃねぇか、と要らぬ心配をしてしまうようなブログをたまに見かけることがある。
そういうお兄さんのブログは、俺の目からはこう見える。
http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20080404/p1
大切な視点をとてもわかりやすく。
>>>不幸・不毛・不当・不様
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080313#p4