http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_f025.html
ドクター茂木健一郎の「厚顔無恥な発言」。
※以下再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070706#p10)
■[くおりあ] 注意書きが抜けてますよ!
◇ たけしの誰でもピカソ
http://www.tv-tokyo.co.jp/pikaso/
とのこと。
何かの手違いで、
※効果には個人差があり、番組および茂木健一郎氏が効果を保証するものではございませんので、あらかじめご了承ください。
というふうな注意書きが抜け落ちてしまっているようです。
それとも、白地に白文字の極小文字でどこかに表記してあるとか?*1
-
-
- -
-
◇ 斎藤環さんと茂木健一郎さんの往復書簡について - 書籍出版 双風舎
茂木さんからの書簡がまだ弊社に届いていないため、掲載が遅れております。誠に申し訳ありません。届き次第、掲載させていただきますので、いましばらくお待ちくださいませ。
http://sofusha.moe-nifty.com/blog/2007/07/post_aad9.html
斎藤環さんの『文学の徴候』を読みながら
研究所に向かう。
斎藤さんも、舞城王太郎さん支持である。
だが、私としては、引用されている文章を
読んでも、やっぱりあまり好きになれない。
貴重な時間で、読まねばならないものは
たくさんあるから、「新しい」と評されている
作家を、そう次から次へと読むことは
物理的にというよりも生理的に不可能である。
思うに、ミステリー、サスペンス、ホラー、
饒舌体、ライトノベル、etc.を支持し、
「純文学」を仮想敵とする批評家の
スタンスは、その深層心理において
実はポピュリズムに依拠していないか。
北上次郎が、もっとも影響力のある批評家
だというとき、
それはおそらくは動かすマーケットが一番
大きい、ということを意味している。
一番金がうごくジャンルの周りで仕事を
していた方が、自分にとっても実入りが良い。
そんな、あまりにもあからさまな方程式が、
「「純文学」なんて古い。これからはなんたって
メフィスト系作家だよ。」
という批評家の一見「かっこよい」スタンスの
背後にあるような気がしてならない。*2
つくづくポピュリズム、マーケット主義はいやである。
もちろん、出版社の営業政策として
たくさん売りたいというのは判る。
オレももし出版社を経営していたら、
沢山売ろうと思うだろう。
自分が作家だったら、書いた本が沢山売れたら
いいと思うだろう。
しかし、売れる本を書くということと、
書いた本が売れるということは違うのだ。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/02/post_4.html
言葉とは、受話者のみならず
その言葉を運用している発話者にも
突き刺さってくるものでしょう。
もちろん、意図するとせざるとにかかわらず。
「茂木健一郎 クオリア日記」の上記記述は
そうした言葉の無差別性のとても良いサンプルとして
多大な教訓をもたらしてくれるものだといえるでしょう。
自らの内なる、最も切実な、甘美な、哀しきクオリアにこそ寄り添え。そして、そのクオリアをポップに昇華せよ。
ここに、クオリア原理主義を宣言する。
http://www.qualia-manifesto.com/qualiafundamentalismjp.txt
この宣言を読みたびに、上記箇所を「そのクオリアをポップに消費せよ。」と読み違えてしまいます。
◇ 科学と仮想 - So-net blogChromeplated Rat
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-06-25
◇「斎藤環×茂木健一郎」関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070605#p12
*1:そういえば、「脳美容」なんてのもありました。http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060909#p4
*2:ところで、『クオリア降臨』という茂木氏の著書のタイトルは、どちらかというと明らかにメフィスト系のような気がしてならない。のは私だけでしょうか? あと、こんなブログの記述も→daily angrofille(http://angrofille.exblog.jp/6412166)ありました。