Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

小谷野敦『猫を償うに猫をもってせよ』(白水社)

http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=03184
http://www.hakusuisha.co.jp/topics/03184.php
http://www.bk1.jp/product/03009598
http://www.amazon.co.jp/dp/4560031843


小谷野敦さんの批評・エッセー集が発売されました。
書店で少し立ち読みしました。
タイトルが小谷野さんのブログと同じなので、
はてなダイアリーの内容をまとめたものかと思いきや、さにあらず。
活字媒体で発表された原稿と
ブログのテキストからの
選集になっています。


あと、最近の小谷野さんのアマゾンレビューから気になったものを2冊。
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A1M7V5UX5IFYH2?ie=UTF8&sort_by=MostRecentReview


◇ 吉岡栄一『文芸時評―現状と本当は恐いその歴史』(彩流社
http://www.amazon.co.jp/dp/4779112907

文藝時評の頽廃を抉る
 著者は50代の英文学者だが、これまでにも『青野聰論』などを書いている。文壇とは無縁であり、また出版社は文学系ながら大手文藝出版社ではない。だからこそ書けた真実という気がする。明治期から現代までの文藝時評の歴史を細かに辿りながら、かつてはおおむね、ダメなものはダメだと書いていた文藝時評が、 1970年代頃から、褒め批評が主となってしまい、いわば「堕落」した歴史を描いている。現在の文芸雑誌の書評欄というのは、褒めるための場と化している観がある。ただ逆に言えば、貶されている作家もあって、それはその作家が、貶してもいい位置にいるからであるということを付け加えるべきだったろう。実はここの見極めが大切なのであり、大江健三郎は貶してもいい作家なのである。あと、著者が、褒め書評が主流となった時代に、かつてのような厳しい時評をした、と書いている渡部直己と糸圭秀美が、何一つ「文学賞」を受賞していないことも、銘記すべきだ。むろん、文学作品の評価をめぐる論争がほとんど起こらないこと自体が、文壇の現状でもある。
 ただし、271−2p、日本とフランスが戦争をしたという秋山駿の認識が誤りであることを書いていないのは手落ちだろう。


吉本隆明『定本 言語にとって美とはなにか〈1〉』(角川ソフィア文庫
http://www.amazon.co.jp/dp/4041501067

天下の愚書
 これほど有名でありながら、これほど何を言っているのか分からない書物というのも珍しい。吉本が言っているのは、自己表現であれば高尚で、そこから離れると藝術的価値は下がるというごく単純な文学価値論に過ぎないのだが、ひたすらそれを日本文学史に当てはめてだらだらと記述するだけで、読んで得るものはほとんどない。夏目漱石の『文学論』にも匹敵する、学理的閑文字と言うべきだろう。