http://www.amazon.co.jp/dp/4794946694
◇ トム・ウルフ『バウハウスからマイホームまで』(晶文社)
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◇ 99/08/01-10 - YES EYE SEEK
『現代美術コテンパン』も、「現代美術」そのものよりは、その背景となる社会が主題と言っていい本だが、逆に、美術に対する愛は薄めなので、美術愛好家の人が読むとちょっと辛いかもしれない。
この本の切り口は、「現代美術を鑑賞するには、理論=理屈が必要である」ということである。著者の主張は、以下のようにまとめることができるだろう。
「絵画」から「文学性」「物語性」を取り除き、その純粋な部分を抽象したはずの「抽象絵画」は、実は「理論という言葉」を必要としている。つまり、「抽象絵画」は「理論で言い換えなければ理解できない代物」である。従って、アーティストは結果的に「言葉を塗っている」のであり、できたものは「塗られた言葉=Painted Word(これが本の原題)」なのである。
また、この「理論」がもたらした現象も延々と語られる。例えば、
- 理論が、いわゆる「文化人」と「大衆」を区別するものとして機能し、このシーンから「大衆」を排除することになった
- アーティストより評論家・理論家という「権威」が主役となった
- 新しい作品の提示=新しい理論(以前の理論を超えた理論)の提示であるため、新しい作品を理解するには古い理論にも通じている必要があった
- 新しい作品(=古い理論の作品を超えた作品)を所有することは、自分が古い世代の価値観ではなく新しい価値観を持つ人間であることを示すファッションと受けとられた
- 新しい理論は絵画であること自体から抜け出そうとし、表現を行為、プロセスへと移していく。しかし、それは抽象的な表現ではなく、具体的な説明を行うことと同じに見えた
などなど。
こうした主張は説得力があり、面白く読める。しかし、著者が、現代美術を鑑賞するための理論=理屈は、アーティストや評論家が作ったものが「絶対」だと考えているようで、それには違和感を感じた。私は、その理屈を鑑賞者が自分で作ってもかまわないのではないかと思し、その自由さえあれば、現代美術の見方も普通の絵画の見方も、結局は何も変わらないんじゃないかと思うんですが。
現代美術では「理論と作品が直結する」ため、新しい理論を常に求めている、という面はある。しかし、その新しい理論の実践である作品が次々と現れるのには、「作品の制作期間」自体が短くなっているのも影響しているように思える。
現代美術の作品は、「モチーフが抽象的・人工的であるため、描線が単純」なので、精緻なリアリズム作品より手間はかからないという面はあるだろう。しかしそれとは別に、「画材の進歩」「新しい手法の出現とそれをサポートするテクノロジーの存在」という、テクノロジーの発達の面も確実にあったと思う。それから、情報化が進んだことで、新しい作品・理論の紹介が世界中に急速に行われ、多くの人がその作品に触れることができるようになり、そのフィードバックから新しい理論が促されるという面もある気がする。
テクノロジーの進歩が、多くの人の創作機会を作り、作品の量・規模を増すことに貢献し、結果として理論のサイクルを速めるということは、他の分野でも起こっていることのように思う。例えば、小説で、最近、海外でも日本でも急に分厚い本が大量に出るようになったのは、ワープロの存在が必要条件であったはずである。(これは綾辻行人もエッセイに書いている)
しかし、そういうふうに理論のサイクルが速くなった結果、結局「成熟」しないまま消えていったものもあるのではないかという気がしている。例えば、art には「芸術」という以外に「技術」という側面もある。私は、成熟、熟練した「技」というものにもとてもひかれる。そうしたものが育たず、目先の理論だけが変わっているだけだったりすると、それはちょっと寂しくなってしまうのだった。
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