Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

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高村光太郎「触覚の世界」 - 青空文庫

 人は五官というが、私には五官の境界がはっきりしない。空は碧(あお)いという。けれども私はいう事が出来る。空はキメが細かいと。秋の雲は白いという。白いには違いないが、同時に、其は公孫樹(いちょう)の木材を斜に削った光沢があり、春の綿雲の、木曾の檜(ひのき)の板目とはまるで違う。考えてみると、色彩が触覚なのは当りまえである。光波の震動が網膜を刺戟(しげき)するのは純粋に運動の原理によるのであろう。絵画に於けるトオンの感じも、気がついてみれば触覚である。口ではいえないが、トオンのある絵画には、或る触覚上の玄妙がある。トオンを持たない画面には、指にひっかかる真綿の糸のようなものがふけ立っていたり、又はガラスの破片を踏んだ踵(かかと)のような痛さがあるのである。色彩が触覚でなかったら、画面は永久にぺちゃんこでいるであろうと想像される。
 音楽が触覚の芸術である事は今更いう迄もないであろう。私は音楽をきく時、全身できくのである。音楽は全存在を打つ。だから音楽には音の方向が必要である。蓄音機やラジオの音楽が大した役を為さないのは、其れが音の方向を持たないからである。どんなに精巧な機械から出て来ても此複製音は平ったい。四方から来ない。音楽堂の実物の音楽は、そこへゆくと、たとい拙くとも生きている。音が縦横に飛んで全身を包んで叩く。音楽が私を夢中にさせる功徳を、ただ唯心的にのみ私は取らない。其は斯(か)かる運動の恐ろしい力が本になっているのである。私は昔、伊太利(イタリー)のある寺院で復活祭前後に聴いたあの大オルガンの音を忘れない。私はその音を足の裏から聞いたと思った。その音は全身を下の方から貫いて来て、腹部の何処かで共鳴音を造りながら私の心に届いたようにおぼえている。

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ハプティック、ハプティクス。