◇ 博士論文「ジャン=リュック・ゴダール論」公開審査 - 平倉圭 hirakura kei
平倉圭博士論文公開審査
論文題目:「ジャン=リュック・ゴダール論―編集/ミキシングによる思考」
2009年6月27日(土)14時(定刻開始)〜17時頃
東京大学駒場キャンパス 18号館 4階 コラボレーションルーム3 [地図]
審査員(順不同):
田中純先生(主査)・松浦寿輝先生・石田英敬先生・蓮實重彦先生・前田英樹先生
http://hirakura.exblog.jp/8403540/
明日開催です。
インスクリプトの中村大吾さんから案内状をいただきました。
以下、案内状より。
★公開審査。参観自由。
★最初の30分で平倉氏が論文要旨の説明をし、その後2時間ほど各審査員との質疑応答が続きます。
編集舞台上のゴダールの身振りを自らの解析の手つきへと累乗反復させるDVD時代のイメージ分析者・平倉圭は、音/映像の連鎖を1/24秒スケールで注視する。ショットとショットを繋ぐゴダール的原理を説き明かすその試みは、バザン、ドゥルーズ、ディディ=ユベルマン、ランシエールらの所論に抗し、ゴダールの真の(あるいは擬の!)野心へと迫る。それはまた同時に、フィルムを見る/聴くという私たちの経験の可能性と限界とを再帰的に問い直すことになるだろう。映画論・映画研究の方法論を更新する平倉ゴダール論、最新報告。(以上文責中村)
◎ 平倉圭 hirakura kei
http://hirakurakei.com/
以前、pdfでアップされていた
- 「ダイアグラム的類似──ジャン=リュック・ゴダールにおける形態の思考」
- 「ゴダール的連結と「正しさ」の問題」
といった論文は現在読めなくなっています。
◇ 【UTCP Juventus】平倉圭 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2008/08/utcp-juve-1/
◇ 平倉 圭 | Members | University of Tokyo Center for Philosophy
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/members/data/hirakura_kei/
◇ 東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」(UTCP)
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/
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◇ 『photographers’ gallery press no.7』
バッド.リスニング──ゴダール−ゴランと複数の顔/音
出来事の未だ聴かれざる声と接続するにはどうしたらいいのか…。ある一枚の写真をめぐる、二人の映画作家J・L・ゴダールとJ・P・ゴランの逡巡のなかから拾いあげられる「バッド・リスニング」の論理と倫理。2007年4月開催のpg講座「ゴダール・システム」に続く、新たなゴダール論。
http://pg-web.net/scb/shop/shop.cgi?No=206
>>>マケットについて──ポンピドゥー・センターに展示されたゴダールのインスタレーション - flowerwild.net
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070819#p5
>>>覚え書き - 平倉圭 hirakura kei
「この顔を見よ!」、「この光の美しさを見よ!」とかいう、映画批評で多用される「感嘆符つきインデックス」も、ぜんぜんダメだ。「感嘆符つきインデックス」の機能は、記述できないシーンを記述するかわりに、そのシーンを「指差し」ている「私」の身体の「緊張」(=!)によって、そのシーンの「強度」を「翻訳」することにある。でもそれって、文章に蛍光ペンで線を引いて、蛍光ペンの「明るさ」を競い合うっていうのと同じことだ。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070308#p8
>>>2009-04-09 09:06 - 平倉圭 hirakura kei
写真=痕跡論というナイーブな議論が間違っていると思う点は、多々あるけれど、ひとつはこの内在性の問題だ。単独的な出来事の痕跡をフィルム上に認めて涙する、というとき実際に起きているのは、その単独的な痕跡を認めた(と信じる)この単独的な「私」の身体に対するナルシスティックな耽溺でしかない。
カメラはしばしば、出来事の内在性を破壊する。カメラが置かれることで、出来事の参加者は出来事の外部に連れ出され、カメラを携えた観察者もまた、出来事の内在的な展開からその外部へ、現像と提示の瞬間へとあらかじめ連れ出されてしまう。
写真の問題はむしろ、出来事の内在性を破壊しないような仕方でカメラを置くこと、あるいは、カメラによる出来事の内在性の破壊それ自体を撮ることにある。そこに撮影者の技量は明確に現れる(他国の撮影、出産の撮影、葬式の撮影を考えよ。「撮影者」はいかなる場合においても「他所者」として現れる)。写真=痕跡論はその技量の差異を扱うことができない。そうである以上、理論の名に値しない。
内在的身体を獲得した写真家を讃えよ。/内在性を破壊し尽くす写真家の身体に刮目せよ。
誰にでも獲得しうる身体ではないから。カメラを持っているだけで、「写真家」として仕事しているだけでそうなるわけではない。
一切の写真は痕跡であり、そうである以上すばらしく、涙を流すべき何かである、というような思考は、愚かしい。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090522#p4
>>>金曜の夜は駒沢公園でジャンベを聴くのだ - 平倉圭 hirakura kei
映画と聖性、それからミャンマーの反政府デモに現れつつある映像のことを、私に見えているかぎりで話す。映像には地獄の力能しかないと私は思うが、その力能によって私たちはたたかうことができる。映像は、決してそれじたいでなにかを救済したりはしない。