Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

2009-04-09 09:06 - 平倉圭 hirakura kei

写真=痕跡論というナイーブな議論が間違っていると思う点は、多々あるけれど、ひとつはこの内在性の問題だ。単独的な出来事の痕跡をフィルム上に認めて涙する、というとき実際に起きているのは、その単独的な痕跡を認めた(と信じる)この単独的な「私」の身体に対するナルシスティックな耽溺でしかない。


カメラはしばしば、出来事の内在性を破壊する。カメラが置かれることで、出来事の参加者は出来事の外部に連れ出され、カメラを携えた観察者もまた、出来事の内在的な展開からその外部へ、現像と提示の瞬間へとあらかじめ連れ出されてしまう。


写真の問題はむしろ、出来事の内在性を破壊しないような仕方でカメラを置くこと、あるいは、カメラによる出来事の内在性の破壊それ自体を撮ることにある。そこに撮影者の技量は明確に現れる(他国の撮影、出産の撮影、葬式の撮影を考えよ。「撮影者」はいかなる場合においても「他所者」として現れる)。写真=痕跡論はその技量の差異を扱うことができない。そうである以上、理論の名に値しない。


内在的身体を獲得した写真家を讃えよ。/内在性を破壊し尽くす写真家の身体に刮目せよ。
誰にでも獲得しうる身体ではないから。カメラを持っているだけで、「写真家」として仕事しているだけでそうなるわけではない。


一切の写真は痕跡であり、そうである以上すばらしく、涙を流すべき何かである、というような思考は、愚かしい。

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