若干それとはずれる話で、フィルムとデジタルの違いについて、バルトを読みながら少し考えていた。これはそのときに書いたメモをそのまま載せます。
ひょっとするとこれは「幽霊」の問題と関連付けられるのかもしれない。デジタルの時代に入る前には、映像や音楽には「ノイズ」という形で「外部」が入り込むものだった。アナログ時代の写真から、デジタル化によって心霊写真の報告は消えたが、それはテレビの画面や写真に穿たれていたたくさんの穴=ノイズ=プンクトゥムが消失したことにより、「幽霊」が消えてしまったことを意味しないだろうか。デジタル化により、死の恐怖でもある幽霊と、触覚的な官能性であったノイズの穴が消去されたことにより、人間が自らの手でデジタルの世界に穴を穿とうとして〈祭り〉を行なっているという解釈も可能かもしれない。ブラウン管は後ろに向けて一点に収束しているように見えたが、液晶モニタはフラットであることも想起してもいいかもしれない。バルトが「鈍い意味」と呼ぶ画面上の意味ではないノイズのような戯れの細部は「言語活動の無限性へと開かれて」いて「言葉の遊び、滑稽なこと、無益な消費」に属し「カーニヴァルの側にある」(『ロランバルト映画論集p17-18』)という指摘もまた重要ではないだろうか。
デジタル化によって失われたフィルムのノイズとか、実写映画において存在する「意味の分からない戯れのような動き」(それは自然のシーンで後ろで動いている葉の数などで典型的に現れる)と、それを極小まで抑え、リミテッド性を極限化した『らき☆すた』と、リミテッドでありながらカメラアイに向いた滑らかな動きを志向する大友や、その齟齬を利用する押井など、fpsや「鈍い意味」みたいなものの「魔」のようなものが存在し、それが官能性や快楽を生み出しているのを、さまざまな領域で実験しているように思われる。ひょっとするとこういうものこそ、まさに「感性工学」で発見されるべきものなのかもしれないが、実際にそういう部分が、物語やメッセージを超えて、作品の評価に繋がってしまっているということは事実なのである。クリエイターも鑑賞者も、もはや識域の下まで考えなければいけない時代が映像では訪れているのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20090420/1240216350
藤田直哉さんのはてなダイアリーより。
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◇ YouTube - ゼロアカ道場第五回関門 藤田直哉プレゼン
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