Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

あれとそれ(http://itness.tumblr.com/)より2題

丘を下り、雑踏のなかへ

” 特定の形態やテーマ、特定のアーティストや時代への集中をさけるという意図は、理解できないものではない。しかし、この類の試みはかつてうまくいったことがあるだろうか。無形式性というコンセプトは、形式という枠組みの外部を指し示しながら、具体化に際して種々のアイデアで補強しない限り、それそのものとしては形式の枠内に留まろうとするものでもある。この悪しきトートロジーは、歴史の死、アートの死、あるいはリアリティの死という浅薄なコピーとともに、繰り返し経験されてきた。種々の死を口にしてみたくなる事情は理解できないわけではない。けれども、どれだけそれらの死を唱えてみたところで、結局その翌日から、当の死に絶えたはずのものと顔を突き合わせる事になる。こうした出口のなさこそを、私たちは経験してきたはずだ。ただの一度でさえ歴史が記述された事がない国々を黙殺しようとする歴史の死、人間の行為・実践の幅をいたずらに狭めようとするアートの死、喪失感を口にする事で、自分自身が世界の現実に関与しているというアリバイ証明を手にしようとするリアリティの死。これらの言表の愚は、目をつぶって、大きく深呼吸してみるだけで容易に了解できる。私たちは、それらのどれひとつとして死に絶えていない世界に生きている。これらの表現には、発言者の欲望だけが関係している。発言者は、発言するだけで満足なのだ。何ひとつ変わることのない日常が、自身が発した言葉のすぐ背後から延々と続いていたとしても関係ないのだ。だが、発言者以外の人間は、こうした愚かな言語ゲームにうんざりとしている。このような経験から学ぶことがあるとすれば、死を迎えつつある対象を新たに捏造するようなことからは遠ざかるべきだということだろう。適度な快感をもたらしてくれるそれらの語句は、結局は束の間のあいだ、向き合わざるを得ない問題を忘れさせてくれるにすぎない。いやひょっとすると、それらの問題と真摯に向き合おうとする機会を奪うことこそが目的だとさえ警戒してみるべきなのかもしれない。もしそうだとするならば、死の誘惑に抗うことにこそエネルギーは費やされるべきだ。”

_nano thousht 現代美学…あるいは現代美術で考察するということ p293-p294

http://itness.tumblr.com/post/83494256

_あの狂人たちは__花崗岩に、微塵に、無生物の渇望に応じている。彼らは造化を助けようとしている。
 その理由は、俺にはわかる気がする。彼らは歴史の犠牲者ではなく、歴史の手先になりたいのだ。彼らは自分の力を神の力になぞらえ、自分たちを神に似た存在と考えている。それが彼らの根本的な狂気だ。彼らはあるアーキタイプにからめとられている。彼らの自我は病的に肥大し、どこでそれが始まって神性が終わったか、自分で見分けがつかない。それは思い上がりではない、傲慢ではない。自我の極限までの膨張だ__崇拝するものと崇拝されるものとの混合。人間が神を食いつくしたのではなく、神が人間を食いつくしたのだ。
高い城の男、フィリップ K.ディック

http://itness.tumblr.com/post/96007081