Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

tttさん(http://nn-nico.blogspot.com/)のツイッターより

◇ ttt (ttt_ceinture) on Twitter

……去年、数時間ででっちあげた文章を転載してみたけど、我ながらひでえ! いろいろ議論のつながりや用語がハッタリすぎる。そして数ページしか読まずに言うという邪気眼っぷりが全開じゃないか。あと、やっぱツイッタに転載するには長すぎたねハハハ 7:17 AM Feb 23rd via web

したがって、複製に再アウラ化が施されるのは必然的な帰結だった。像をめぐる「遠さ」/「近づけ」の運動は、固有化・脱固有化・再固有化をめぐるうねりとしてある。 7:15 AM Feb 23rd via web

「一回性」/「一時性」は、大聖堂/「それぞれの状況の中にいる受け手」(p.590)と符合し、持続性は存続性に符合する。その持続性が、そもそもおのずから自己反復的に産出のなかにあるからこそ、「空間と時間に織り」なされる。 7:15 AM Feb 23rd via web

しかし、アウラを像を像とする連続的過程そのものを指すとして見たとき、この分裂は像/複製の分裂というよりは、像=模像におけるそれ自体の内在的分裂である。 7:14 AM Feb 23rd via web

アウラ/脱アウラ化 は?節では像/複製(=模像) と重ねられている。「像においては一回性と持続性が密接に結びついているとすれば、複製においては一時性と反復可能性が同じく密接に結びついている。」(p.593)  7:14 AM Feb 23rd via web

つまりシーケンスが要請される。なんに関係するのかわからない、いまだ関係として定位されえない関係が感じられる。」(同書p.320) 7:14 AM Feb 23rd via web

アウラが保証されていないときは、意味も質も、ひとつに同定できない。にもかかわらず写真あるいはなにか作品を理解しようとするとかならず、それを他のなにかに結びつけるためのアウラ、 7:14 AM Feb 23rd via web

岡崎乾二郎はある意味で鋭くこの指摘をしている。彼はアウラは作品の唯一性というよりは「作品の同一性が保証されるシーケンス、コンテクスト」であり、「同位できる点ではなく、連続、シーケンス」なのだと。 (斉藤環編『アーティストは境界線上で踊る』pp.318-319)。 7:13 AM Feb 23rd via web

ここでは現実/虚構のような二元論的言い回しによってベンヤミンはつい「物質」と言ってしまってるのであり、最初から二元論的に言わない方がベンヤミンの発想にかなうはずだった。そして、この存続性を、いわば音楽を音楽たらしめている不可視の、位置づけえない場所なき場所だとしてしまえばいい。 7:13 AM Feb 23rd via web

次節では「そもそもアウラとは何か。空間と時間に織りなされた不可思議な織物である」とある。この「空間と時間に織りなされた」が、物質的存続性だ。つまり、ベンヤミンの説明は結構混濁してるのだ。文字通りの物質的連続性だと読む必要はない。 7:13 AM Feb 23rd via web

b. 同時にこの概念は、事物の物質的存続性、それにもとづく歴史的証言力を含む。物質的存続性はたとえば、大聖堂を大聖堂で受容すること、音楽をその場で聴くこと。 後者はいじれる。物質的存続性って何なんだろう? と。 7:11 AM Feb 23rd via web

a.オリジナルのもつ〈いま−ここ〉的性質。それによって形成されるオリジナルの真正さ。手製の複製では失われないが技術的複製では失われる。(p.588) 事物の真正さは、事物において根源から伝承されるものすべてを総括する概念。 7:11 AM Feb 23rd via web

ふとベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』の?節、?節のみを読み返していた。『複製技術時代の芸術作品』?節では、アウラに二つの説明が施されている。 7:11 AM Feb 23rd via web

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