Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

中谷礼仁さんのツイッターより

中谷礼仁NorihitoNakatani (rhenin) on Twitter

刻んでおく。長くなるがすまない。→デザイン行為は、現代生活にあらたな光を見いだしうるか 吉阪隆正賞選考規定のもっとも重要な規定は、近年に公表された「デザイン行為によって、現代生活にあらたな光を見いだした」個人または集団を対象とすることであると考える。

私自身はこの選考規定にさらなる詳細な規定を付加する必要はないと考える。しかし、以下の二つの設問に応えておくことは審査員の一員としての義務であると考えている。   1・デザイン行為とは何か   2・デザインが現代の生活にあらたな光を与えうるか

1・デザイン行為とは何か デザインとは先ず動詞であった。「行為」が付加されたのは、本来の動詞的側面が忘れ去られている現在的傾向についての注記のようなものだと考えたい。 それをふまえた上で、デザインの最終的な目標とは何か。 それは「かたちを決定すること」(alex)である。

回り道をする。そのかたちは周囲のコンテクスト(要求)と切っても切りはなせない。「かたちとは、我々がコントロールできる世界の一部分であって、…またコンテクストとは、この世界のかたちに対して要求を提示する部分である。この世界でかたちに対する要求となるものはすべてコンテクストである。」

この定義においては、かたちはコンテクスト(要求)によって決定される。それは正しい。なぜなら意識された要求群(デザインを必要としている状態)とは、すでに矛盾を抱えた解決せねばならない、創造を喚起する状態だからである。これは吉阪が、「不連続統一体」とのべたことの本質であると思われる。

2・デザインが現代の生活にあらたな光を与えうるか それでは以上のような《解決》としてのデザインは、現代の生活にあらたな光を与えうるだろうか。「解決」ももちろん《あらたな光》ではあるが、別の段階があることを指摘したい。

それはかたちに結実した存在のもつ力である。それが逆に創造的問題を引き起こし、新しいコンテクストとして、周囲に変革を迫るのである。これはデザインの物質化、時間化、社会化によってひきおこされる《あらたな光》である。 ではそのようなかたちを作るときに、吉阪的本質とは何か。

3. U研とは「宇宙」研究所ではなかったか 早稲田建築の系譜にあって、今和次郎、吉阪隆正に至る流れは、いまもっとも潜在的な可能性を秘めていると確信する。それは両者がいずれも「宇宙人」的であったことに由来する。

今和次郎は都市的、地理的視点を包摂した視点から、振り返って無名の民家の細部を採集した。 ・今は考古学から出発して、考現学を発明した。故意に現在を切断し、考古学のように見つめ直すことで新たな世界を提示した。

・吉阪のデザインには周囲の拮抗を統合したかのような細部と、その細部に必然性を与える拡大された世界的コンテクストの見方が同時に示された。 ・手の作業にこだわりながら、単純なヒューマニズムではなく、それはきわめて闘争的文明論の帰結でもあった。

両者のデザインには、人間でありながら、同時に宇宙人である(故意に人間的事情を断ち切る)という移動が存在する。そのギャップはかたちを作るその場で同時に時間化、宇宙化がなされることでもあった。

人間にとって宇宙人とは絶対的他者のはずであった。しかし人間も宇宙人なのである。このような振幅の大きい視点移動とそこから導きだされるデザインこそが、あらたな光を生活に与えうるであろう。具体的でありながら、同時に「プラネタリー(惑星的)」な思考に裏打ちされた行為に吉阪賞を献じたい。

http://twitter.com/rhenin


中谷礼仁・記録・2004-, Nakatani Norihito's Blography
http://www.acetate-ed.net/blog/nakatani.php


>>>吉阪隆正賞創設記念シンポジウム
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20100801#p22


※過去の中谷礼仁さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%C3%E6%C3%AB%CE%E9%BF%CE