Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

石岡良治さん(http://ddstorage.exblog.jp/)のツイッターより

◇ Yoshiharu ISHIOKA (yishioka) on Twitter

美的判断の作動について考え直すために唯美主義の系譜を辿り直すという課題を設定した。

漫☆画太郎「ハデー・ヘンドリックス物語」を読む。クリスマスのお話。あからさまに絵柄の違うモブキャラがこのあと何度もコピペされることで画太郎ワールドに入る。

.@nonomurax メタリカなどのロゴがどういう性格を持っているのかについては考えてみたいところです。LAポップ(Ed Ruschaとか)あたりも手がかりになるのでしょうか。

なるほど!RT @nori_1999: マックラケンやトニードゥラップなどの60年代のLAの作家は光の効果を彫刻に導入すべく磨き上げられたサーフェイスに固執してますよねー RT @yishioka: .@nonomurax メタリカなどのロゴ…LAポップ(Ed Ruschaとか)

ヒロ・ヤマガタさんのことも考える必要アリかもしれませんRT @nori_1999: @yishioka Light and space artというカタログのテキストでは、そういう動向がJames Turrellのコンテクストになっているとのことでした。

ダン・フレイヴィンDan Flavinの再検討からはじめるかな…

@umelabo 1980年代ぐらいだと「記号」でひたすら押していくアプローチが多かった題材です(日本ではIDEAL COPYなど)が、梅ラボ的な?アプローチはぜひみたいです。新しい自然の時の棚が展開していく感じで?(正確さを欠く言い方になっていますが)

「記号」と括弧入れしているのは、おそらく多くの場面で「記号」=1970-80年代のボードリヤールの批評という了解があるから。もちろんこの通念は問い直されるべき。射程の長いパース記号論の検討などが望まれるところ。もちろんボードリヤール自体の再読も。

ルイス・ブニュエル『黄金時代』(1930)冒頭のサソリシークエンス( http://bit.ly/gSXWWL )。この映画が物議を醸したのはサド『ソドム百二十日』とキリストの重ねあわせが原因だが、サソリの印象も見逃せない。

物語映画を俳優軽視で見ていた時期がけっこう長いが、今はそういう事はない。すると考えるのはスターシステムのことだ。実際、あるスターが輝けばそれで構わないという作品も多い。映画ドラマを問わず。もちろんナラティヴとスターは排他的な基準ではなく、かなりの部分で重なり合っている。

アニメにも同様のことが言える。キャラないし声優ベースで見れば、いわゆる微妙なアニメもそれなりに見れてしまうものだ。だがそれはほとんどのアニメが自動的に備える「保険」であり、そこで守りに入らない作品を買いたいところだ。換言すれば、本篇に批判的でもキャラの層は別様に機能する。

こうした事情においては(実写)映画とアニメの差異はそう大きくないようにみえる。非物語映画と「アートアニメーション」(この呼称にも留保は必要だ)の並行性についても何らかの照応関係を見いだせるかもしれない。あまり整理されていない考えだが、小説やマンガはやや様相が異なるようにも思える…

読解のモメントがどこに位置付けられるのか、moving imageとしてのオートマティズム、プロジェクションと光の関係、などが様相の違いに関与しているのだろう。

修辞学の体系。inventio(発見)-dispositio(配置)-elocutio(修辞)-memoria(記憶)-actio(演説)すべてがおぼつかないように思うがまずはdispositioを強化。

「学」と「批評」の相互反目はとても見慣れた光景と言わざるをえない

バズワードの各々に対して「礼賛」「批判」「揶揄」「そもそも流行とは」等々の戦術が生じるが、この初手そのものに価値があるようには思えない。そこにどういう操作が施されるのかという方が重要。ただ後者にいくにしたがって「自動的に」射程があるかのような見かけを呈することも事実。

http://twitter.com/yishioka


※過去の石岡良治さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%C0%D0%B2%AC%CE%C9%BC%A3