Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

高橋悠治《小林秀雄「モオツァルト」読書ノート》(1974年)より+α

「ある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」。この一行は、以後の日本の音楽批評のパラディグマになった。だれもが音楽との「出会い」を書くことで、音楽論に替えようとする。そのとき、自分をできるだけあわれっぽく売りこむこともわすれない。
 この種の出会いを書くことは、実際にはたいへんむずかしい。何気ないたったひとつの記憶を伝達するために、プルーストは「失われた時」の全体を必要とした。「ある時モーツァルトのメロディーが頭の中で鳴った」などというのは、読者には何のかかわりもない偶然にすぎない。そこに引用された楽譜は、何でもよかったのだ。「自分のこんな病的な感覚に意味があるなどというのではない」。そのとおりだ。

 批評は文学であり、「批評の方法も創作の方法と本質上異なるところはあるまい」と言う。このねたましげな表現にかくれて、小林秀雄は作品に対することをさけ、感動の出会いを演出する。その出会いは、センチメンタルな「言い方」にすぎないし、対象とは何のかかわりもない。冬の大阪で、小林秀雄の脳は手術を受けたようにふるえたかも知れないが、モーツァルトのメロディーは無傷で通りすぎてゆく。出会いは相互のものでなければならない。
 この本は、つまらないゴシップにいやらしい文章で袖を引き、わかりきった通説のもったいぶった説教のあげくに、予想通り、反近代に改造されたモーツァルト像をあらわす。
 作品について書かれた例外的な個所では、そのまわりをぐるぐるまわるだけである。うす暗いへやで古いツボをなでまわしながら、「どうです。この色あい、このつや、何ともいえませんね」などと悦に入る古道具屋には、かつて水をたくわえるためにこのツボをつくった職人の心はわかるまい。
 ゴシップのつみかさねから飛躍して、「誰でも自分の眼を通してしか人生を見やしない」とか、「ヴァイオリンが結局ヴァイオリンしか語らぬように、歌はとどのつまり人間しか語らぬ」などの大発見にいたるそのはなれわざには、眼もくらむおもいがする。やがては、「雪が白い」とか、「太郎は人間である」というような大真理だけを語ったことを感謝しなければならない日もくるだろう。
 日本の音楽批評は、小林秀雄につけてもらった道をいまだに走りつづけている。吉田秀和や遠山一行や船山隆が、まわりくどい文章をもてあそんで何も言わないための「文学」にふけり、音楽の新刊書はヨーロッパ前世紀の死者へのレクィエム以外の何ものでもなく、死臭とカビがページをおおっている。「近代は終わった」とか「現代音楽は転換期にある」などと言う声をきけば、吸血コーモリのようにむらがって、できたての死体の分け前にあずかろうとするが、自分たちが二世紀前の死体の影にすぎないことには、とんと気がつかないらしい。

高橋悠治/1970年代コレクション』(http://www.suigyu.com/yuji/ja-books.html)所収
※初出は『ユリイカ』(1974年10月)


◇ 匿名希望「小林秀雄をひっぱたきたい」 - 読書会ブログ★白水Uブックス研究会(B)LOG

わからない。
何が書いてあるのかさっぱりわからない。
2回も読んだのにわからない。
しかも2回目はメモをとって読んだというのにわからない(2回じゃ足りないのだろうか)。
もちろん日本語としての意味はわかる。
いや、嘘ついた。
じつは日本語としての意味もわからなかった。
わからないから、書いてあることがフレーズ単位でさえも頭に残らない。

確かにモオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。

わからない。
このフレーズは何なのか。
ここで表現されているのは、一体どんな音楽なのか。
これを書いた人間はモオツァルトの音楽ではなく自分に酔っているだけではないか。
たぶんこの人にとって批評の対象は別にモオツァルトでなくてもよかったのだ。
この批評の「モオツァルト」という単語を、すべて「マイルス・デイビス」に変えても、なんとなく読めてしまうことが、それを証明していないか(歴史的な事実は置いといて)。

マイルス・デイビスは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それぞまさしく目的を貫いたという事であった」

#
「モオツァルト」とは、いったい何なのか。
それは、音楽について書かれた「文学」である。
悪い意味での「文学」である。
少なくとも音楽評論ではない。
これを読んでも、今後の音楽受容には1ミリもプラスにならない。
少なくとも私にとっては。
コードの名前のひとつでも覚えたほうが有益だ。
「モオツァルト」は、実はたいしたことを言っていない。
メッセージは次の3点である。

1)モオツァルトは天才だ。
2)モオツァルトの音楽は比類がない。
3)モオツァルトのことが分かっているのはオレだけだ!

べつに難しくもないことを、大上段に難しく言っているから意味がわからないのだ。
視野が広そうで、実は狭い
(ここではクラシック音楽が盲目的に特権化され、
 ジャズを含む大衆音楽は、ただの背景に追いやられている)。
すべてを見ているようで、なにも見ていない。
ここにあるのはレトリックとペダントリーだけだ。
「音楽」はない。
小林秀雄も自分で言っている。

もはや音楽なぞ鳴ってはいなかった。(P10)

そのとおりだ(高橋悠治風に)。

http://d.hatena.ne.jp/natsugo/18000503


>>>[要再聴] 高橋悠治茂木健一郎:公開トーク『他者の痛みを感じられるか』2005年12月17日(土)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090422#p2


>>>書店で「著名人の本棚」みたいな企画を見かけることが、
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20100128#p2


>>>高橋悠治小林秀雄「モオツァルト」読書ノート/コレクション1970年代 (タカハシユウジ/コレクション1970ネンダイ) - 関心空間

高橋悠治小林秀雄『モオツァルト』読書ノート」- 知られざる佳曲
http://blog.livedoor.jp/unknownmelodies/archives/50334430.html
佐々木敦さんの「「モオツァルト」・グラモフォン―小林秀雄試論」は、
書き下ろしの続編「小林秀雄の/と「耳」―モオツァルト・グラモフォン2」
とともに、『(H)EAR ポスト・サイレンスの諸相』に収録されています。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A1%CA%A3%C8%A1%CB%A3%C5%A3%C1%A3%D2

http://www.kanshin.com/keyword/697852


>>>「小説、言葉、現実、神」(文:保坂和志)より

「こうして空間に時間が形となるのか」と感じたとき、その人にとって、より直接的なものは目の前にあるポロックの絵よりもいま出てきたその言葉の方になっているのではないか。
 ……そうは言いつつ、私にとって音楽は絵画や映像よりもずっと直接的であって、好きな音楽を聴いているとき私は言葉を必要としていないのだが。小林秀雄の『モーツァルト』の中に「悲しみの疾走に涙が追いつかない」とかいう有名な言葉があるが、音楽を聴いていてそんな言葉を書き付ける必要があると私は感じたことがない*1。ただ二回だけ、一度はジャズのギル・エヴァンスのオーケストラをCDで聴いているときに「音に花火のような色彩がある」と感じ、もう一度はダニエル・バレンボイムが指揮した「春の祭典」を会場で聴きながら「音が空間全体に配置されている」と感じたことはあったけれど、小林秀雄のような言葉を感じたことはないし、そんな言葉が音楽に必要とも思ったことはないのだが。
 ……だから少なくとも私にとって音楽とは言葉を介在させなければ接近できない対象ではなく、もしモーツァルトブルックナーの響きの中に神の啓示があるのだとしたら、それはきっと本当にふだん言葉で想像するのと全然異次元の体験ということになるのだろうが。
 絵画は空間(平面)であり、配置であり、一挙的であり、それに対して音楽は時間の中での展開だから同じように考えてはいけないのかもしれない。絵画は見るために案外能動性を必要とするが*2、音楽は受動的になれることによって、能動/受動という区別と別の次元が開けるのかもしれない。

佐々木 正人 編 『包まれるヒト 〈環境〉の存在論』所収
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/3/0069540.html
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031847086&Action_id=121&Sza_id=B0
http://www.amazon.co.jp/dp/4000069543

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070715#p8


2007-07-12 - http://d.hatena.ne.jp/k11/

高橋悠治高橋悠治 | コレクション70年代」音楽の学習のために より

大衆は現代音楽を聞かないからこれを大いに啓蒙しなければいけないというような結論をすぐだしたがるひとがいるが、よくないことである。この場合啓蒙といっているのは相手は何も知らないという前提にたって、わかっていると自分では思っているひとがその意見を相手に押しつけるわけで、どこまでいっても一つの偏見のかわりにもう一つの偏見を押しつけることにすぎない。それではどうすればよいのか?いったんある偏見をうえつけられた人はなかなかそこから出るのがむずかしい。そこに別の偏見を持つ人がきて、自分の意見をわからない相手がまったくの白紙であるときめこむのもおかしい。子どものころから家で聞いている音楽があり、学校へ入るとそれとはちがう音楽を教えこまれる。そこから複雑なかたよりが生じる。ほんとうの教育は、そうしてかたよっているものにまた別なかたよりを与えてよくしてやろうというのではなく、無意識に身についているものについて自分で考えることをうながす方法ではないだろうか?

いろいろなものを聞くうちに、自分のものがわかってくるということは別ないいかたをすれば、自分の求めるものがあるからこそ、いろいろなものがそこで意味を持ってくるということである。音楽の永遠の定義をどこかに求めるよりは、一曲の音楽を自分がどういうふうに聞いているか、この音楽と自分がどういうふうにかかわっているかということから逆に、その音楽の意味を見つけ、またそれに写してみて自分の位置をはっきり知ることがたいせつなのだ。

私の知る即興というとやはり音響的即興のことで
それ以外の即興は全く知らないか全く知らないのと同じくらいで
ここになにを求めていたかというと
いま批判的に言われているようなテクスチャーではなく
奏者の気合いとかやる気とか集中とか才能とか能力とか魅力とか
そういう曖昧なファクターばかりではない解釈が可能で
なおかつ計算(コンピュータ)とは別の原理による運動性だったように思う。
だから佐々木敦(だけではないようだが検索してみると)のいう
即興演奏とアフォーダンスという組み合わせで考えることは面白いと思っている。
あといつも思うことだが
テクスチャーが批判的に問題にされたからといって
テクスチャーがまず目につくようなものはすべて最初のふるいで落とされてしまって
思考の範囲にも入らない(入れない)というようなことがなされていたりするのは
まあごく狭い範囲ではあるかもしれないが一体どうしてなんだろうか。
音楽ジャンルとしての音響的即興に見切りを付けるのは勝手だが
それと同時にひとつの人間的現象としての即興にも見切りをつけてしまうのは
とてももったいないような気がするがどうなんだろうか。
「即興」なんてキーワードはなんでも当てはまるから
それだけ広く考えられるものだと思うのだが。
そう思うと吉村さんはそういう磁場(シーンではなく)の近所にいながらも
流されることなく自分の思考を続けているのがすごいと思う。
というようなことがユリイカ大友良英特集の杉本拓さんの文章を立ち読みして思ったことで
いつもながらこの人の考えていることは面白いと思った。
宇波さんの文章も立ち読みだがその語り口も含めて面白いと思った。
吉村さんの文章はなんだか立ち読みではしんどい気がしてやめた。

http://d.hatena.ne.jp/k11/20070712
小田寛一郎さん(http://www8.ocn.ne.jp/~fhs/)のはてなダイアリーより


※過去の高橋悠治さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%B9%E2%B6%B6%CD%AA%BC%A3

*1:参考:高橋悠治小林秀雄『モオツァルト』読書ノート」http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060821#p7

*2:保坂さんは議論をすっきりとさせるために、あえて一般化してこう書いているのでしょうが、平面は「みること」に能動性を要するがゆえに、だからこそ、必ずしも「一挙的」ではない場合があります。つまり、平面にも時間の中での展開がありえるということ。