Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

日本 - 〈B術の生態系〉Bな人のBな術

アメリカが日本を描く。これだけで期待は否が応にも高まるが、実際の作品もまた、どうやらそうした期待に違わぬエキゾチックでステロタイプな日本が諸所に見られる様だ。日本版の予告編には、フジヤマ、ゲイシャ、カブキは元より、五重塔、日本髪、太鼓橋、石灯籠、城、番傘、銅鑼、鉢巻、相撲、鳥居…。そして統一感に乏しい極彩色の看板が飽和した都市に、ボンネットの日の丸に、ゲームキャラに、洗浄トイレのオペレーション画面のアニメキャラと、どこまでも「日本」が描かれている。その「日本」は「わびさび」では勿論なく、また現代日本人が遡行的に注意深く発見した「奇想」でもなく、単にスチャラカなイメージの系譜ならぬ群だろう。


こうした海外映画に登場するフジヤマ、ゲイシャ、カブキで表現される日本は、常に鏡像と対話する事がこの上なく大好きな日本人の身悶えの対象であったりするのだが、ならば、今やフジヤマ・ゲイシャ・カブキと並んで、アニメ(= anime ≠ animation)もまた、日本人が「真の日本はコレジャナイ」と身悶えして然るべきステロタイプな海外からの日本観という事なのだろうか。確かに、今やアニメは、21世紀初頭の日本人の、特に海外向けの自画像を描くのには、一番手っ取り早い錦絵的ネタであるとは言えるかもしれない。それが、何時までネタとしての効力があるものかは判らないが。


しかし英語版の Trailer では、それ程に日本のシーンが登場する訳ではない。そこでは日本は物珍しい風変わりな国として描かれているものの、その扱いは「世界中を舞台にした壮大な“スパイ戦”」に登場する国の一つでしか無い。日本版の予告編に見られる、「日本」にウェイトを置いたこうした編集を行ったのは、マーケット含みの「日本側」の事情によるところが大きいのだろう。ステロタイプでも何でも、兎に角「世界」で日本が取り上げられる事が重要だという事だろうか。何はともあれ、日本が話題になっている事が重要だという事だろうか。どんな形であっても「世界」に日本が登場する事は喜ばしいから、フジヤマ、ゲイシャ、カブキの珍妙さにも目を瞑ろうという事なのか。その上で、それが本当の日本を知る切っ掛けになってくれれば良いとする考え方は、確かに常に存在する。誤解を切っ掛けに、真の理解へ。しかしそう考えてから、果たして何十年が経っただろう。結局理解は、常に圧倒的な誤解に負け続けている。日本に対する理解を「世界」に求め続けても尚、それは些かも実現されていないかの様に見える。日本はとても難しい国だという問題だけが常に残り続ける。


日本への誤解を払拭して理解を求めたい。しかし他人に求める理解というのもまた、一種の誤解ではないだろうか。例えばアメリカという国に対して「カウボーイ」というステロタイプがあるとする。恐らくそうしたステロタイプに対して、「真のアメリカはコレジャナイ」とするアメリカ人の存在を否定する事は出来ない。しかし、アメリカという国を、政治、経済、軍事を含めて一言で評したい時に、「カウボーイ」というステロタイプ(誤解)が、時に役立ってしまう事があるのは事実だ。他人に期待する自らに対する理解とは、他人からこう見られたいという、自己に対する願望である事が多々ある。それは自分自身に対する一種の思い込み=誤解であるのかもしれないし、他人からの誤解は、自己願望的であるものに対する批判的性格を持っているかもしれない。「そうは言っても、アメリカはやっぱりカウボーイだろ」といった様に。ならば「そうは言っても、日本はやっぱりフジヤマ・ゲイシャだろ」や「そうは言っても、日本はやっぱりアニメ・ゲームだろ」という誤解に、一定の批判的真理といったものが存在するかもしれない。それでもそうした誤解がどうしても嫌なら、これ以降、一切他国に対してこうしたステロタイプで語らない事が、倫理上求められるところではあるだろう。

http://d.hatena.ne.jp/murrari/20110707/1310025145


◇ 夜景 - 〈B術の生態系〉Bな人のBな術

ここ暫く病院に寝泊まりしていた。


病室から出れば、自分たちのいる病室の、向かいの入り口が開け放たれた空の病室の窓から、「外」の世界の夜景が見えた。付近には「夜景が見える」事を売りにするレストランやホテルやマンションが多く存在する。病院の窓外に広がる夜景は、それらから見えるものと全く遜色ないものだろう。しかし「夜景が見える」事を売り文句にする病院は少ない。どころか殆ど存在しない。


レストランやホテルやマンションの夜景が「売り」になるのは、畢竟そこから見える夜景がポジティブな意味を持つと思われているからだろう。見れば必ず気分が落ち込んでしまう夜景を売りにするという事はまず考えられない。それがポジティブであるのは、例えば夜景がロマンティックを想起させるが故にだろうか。それともそれが、一種のライト・アート、ヒーリング・アート的意味を持つが故にだろうか。或いはまた、俯瞰の視点を手中にした事による全能感の獲得故にだろうか。


病院から見える夜景。それは極めて稀にロマンティックなものかもしれないし、一種のライト・アート、ヒーリング・アート的意味を持ったり、全能感の獲得であるかもしれない。しかしその一方で、病院内の人によっては、病院の窓外の夜景に対して、「必ずあそこに帰る」事を決意させるものかもしれないし、また場合によっては「あそことは別な場所にいる」自分を否応無く再認識させられる事になるのかもしれない。


それら夜景に対する思いは、それぞれ病院内に留まらざるを得ない人の持つ、様々なレイヤー、様々なフェイズによって異なるものだろう。しかしそれでも共通すると思われるのは、この夜景を見ている自分自身の現状を、最終的には肯定的なものとして捉えてはならないという事になるのかもしれない。何時かはここから出なければならない。どういった形であれ、ここから出なければならない。病院はそこに留まってはならない場所だ。ならばやはり病院の夜景を、留まりたい事が条件である売りにする事は出来ない。

http://d.hatena.ne.jp/murrari/20110630/1309422082


◇ 大村益三 (omuraji) on Twitter
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※過去の大村益三さん関連
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