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装飾という群衆 神経系都市論の系譜 | 田中純 ‹ Issue No.40 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース

Ornament as Mass: Geneology of Neuronal Urban Studies | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) pp.70-79


1 身体・イメージ空間の襞
一九六〇年代にマーシャル・マクルーハンが『メディアの理解』で電気メディアを身体外部への中枢神経系の拡張であると述べるのに先だち、二〇世紀初頭のゲオルク・ジンメルヴァルター・ベンヤミンの都市論は、近代都市の経験が人間の神経に及ぼす作用を通じて、都市における人間身体を一種のサイボーグととらえる一方、都市をひとつの「身体空間」として描きだしていた。
ジンメルは論文「大都市と精神生活」(一九〇三)で、外的、内的な刺激の迅速な交代が「神経生活の高揚」を生む大都市では、刺激があまりに過剰で強力すぎるための一種の適応現象として、独特な「倦怠」という無感覚状態が生まれているとした。この「事物の相違に対する無感覚」は、彼によれば、貨幣経済の論理が人間の精神に浸透した結果である。大都市とはジンメルにとって、個人の「主観的精神」をのみ込む「客観的精神」の表われであり、その意味では大都市こそが「精神生活」そのものだった★一。これはいわば、弁証法的総合の論理によってドイツ社会学が築いた都市イデオロギーである。
ベンヤミンは「ボードレールのいくつかのモチーフについて」において、ジンメルの認識を受け継ぎながら、そこで分析されたプロセスを感覚変容の過程ととらえ直した。ボードレールにおける群衆の経験を分析するなかで彼は、ポーの『群衆の人』に現われる通行人たちが、あたかも自動装置に順応させられたかのように、ショックに対する自動的、機械的反応しかできないさまを指摘する。その分析を通じて、大都市の路上におけるこうしたショック体験が、機械装置を相手にした労働や賭博の勝負に通底させられてゆく。

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※過去の田中純さん関連
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