Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2013-08-27]

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年03月06日 - Twilog

“写真映像の基本的な知識は、「そこに表面がある。さて、その向こうにはなにがあるのか、現実がこういうふうに見えるとすれば、その現実はどんなものであるはずかを考えよ、あるいは感じ直観せよ」といってみることである。

自分ではなにも説明できない写真は、推論、思索、空想へのつきることのない誘いである”(スーザン・ソンタグ『写真論』所収「プラトンの洞窟で」より)

“写真とは表象を持たずにレフェラン(指示対象)だけを持つ特殊な記号である。記号としての写真は、リアリズムともドキュメントとも関係なく、心理とも記憶とも関係がない。写真は、「撮るもの」からも「撮られたもの」からも独立している”http://j.mp/YVzG8d

「表象なきレフェラン」http://j.mp/YVvx3Z 「特殊な記号」http://j.mp/YVvIMJ

http://twilog.org/n291/date-130306


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年02月06日 - Twilog

※「写真2.0」の検索結果 - Twilog http://twilog.org/n291/search?word=%E5%86%99%E7%9C%9F2.0&ao=a

ワークショップの第3期・第2回では、2000年以降の写真特集をざざっと洗って、「写真2.0」の頓珍漢ぶりを検討しました。http://t.co/WYudmTx9

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『写真論と写心論』(工作舎 1979年)のP69-70を再読。森永純さんや松岡正剛さんが森山大道さんのマンネリと業界との結びつき(これは荒木経惟さんについても[惟経と誤植])を批判。また、海外の動向に無関心で不勉強だとも(今のコピペ世代のように表層的に知っていても無意味ですが)。

『写真論と写心論』(工作舎 1979年)は、「写真そのものには心なんて写らないでしょう普通」ということで敬遠していましたが(畠山直哉さんの写真には心が写る発言は2008年)、読んでみるとけっこう面白かったです。目当ては河原温の話と森永純さんの外からの視点でしたが。

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“画家は構築する。「見えるものを、見えるようにする」ために。しかしカメラは、暴露するのだ。「見えるようにする」構築が、はからずも隠蔽するかもしれない、「見えるもの」の在り処/有り様を。写真の登場以来その〈野蛮〉が、どのように嫌われてきたかは、いまでは常識に属している”(鈴城雅文

鈴城雅文『原爆=写真論』(窓社 2005年)より。スーザン・ソンタグの「画家は構築し、写真家は暴露する」を受けての基礎的な議論から引用。

“創作的に写真を撮ることは、写真を流行にゆだねることだ。〈世界は美しい〉−−これがそのさいのモットーにほかならない。……こういう写真による創造的なものの真実の顔は、広告であり連想作用であるので、それに正当に対立するのは、暴露あるいは構成である”(ヴァルター・ベンヤミン

『写真小史』でしたっけ?ずいぶん前に読んだきりです。http://t.co/4WY91veH 〈世界は美しい〉はもちろんアルベルト・レンガー=パッチュのこと。スーザン・ソンタグヴァルター・ベンヤミンの著作をどのように読んでいたのかも気になるところです。

※「よ し き た」http://t.co/gtxUIrmV

“写真は構築的には語らない。「見えるものを、見えるようにする」絵画の対局で、写真は「見えるものを、見えるように」ではなく、「見えないまま」に突出させる。この〈野蛮〉が無碍に退けがたくなるのは、人為ではなく機械装置の所産であるそれが、「かつて-そのように-あった」という理由による

なるほどそれは、「かつて-そのように-あった」。いまも、あるーーとはいえ「どのように」かは、ついに不明にしたまま” 鈴城雅文『原爆=写真論』より

これは、清水穣さんの「表象なきレフェラン」(同じことが志賀理江子論の冒頭でかなり噛み砕いて説明されています。文字数のエコノミーを重視しなかったことにも、おそらく理由はあるのでしょう)、あるいはドゥルーズプルースト論(未読)の「シーニュ」と同じことを言っているように思います。

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メモ。【宮台真司「クソアピールをやめることができないクレージークレーマー層の“認められていない”感」】“見栄えをコントロールする自信がない人にとって、オンラインは願ったり叶ったりの世界/認めてもらいたいという鬱屈ゆえに、ネットで噴き上がる”http://t.co/zeBvvAnV

メモ。新しい言葉を覚えました。【自分の安地を作っていないか?「ネムルバカ」にみる駄サイクルの恐怖。 - たまごまごごはん】http://t.co/dK6LLget 【kurokori日記: SNSに漂う腐臭、社会進出する「駄サイクル」】http://t.co/Hyt3h4AT

【Web写真の現在】http://t.co/qXrmSipe ※「駄サイクル」で思い出しましたが、以前こんなまとめページを運営していました。すべてが、“ライトな駄サイクル”で回っていたわけではないのでしょうけども、しかし本当に多くの人が現れては消えていきました。。

http://twilog.org/n291/date-130206


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2012年12月10日 - Twilog

“そしてトリスタン・ツァラは一九二二年にこう書いている。「芸術と呼ばれていたものが全部痛風にかかってしまっていたとき、写真家が彼の一千燭光のランプに点火し、そして感光紙はいくつかの日用品の黒い影を段階的に吸収した。写真家は繊細で無垢な閃光のもつ射程を発見していた。こうした閃光(…

…)は私たちの目を楽しませる星座のどれよりも重要なものだった」。風見鶏的な思惑から、あるいは偶然から、あるいは楽だからという理由で造形芸術から写真に転じたのではない写真家たちは、今日同業者のあいだで前衛(ルビ:アヴァンギャルド)の位置にいる。なぜそうなっているかというと、(…

…)そうした写真家たちのこれまでの歩みが、彼らを現代写真の最大の危険から、すなわち美術工芸品めいたものになる傾向から、ある程度守っているからである。” ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』(久保哲司 編訳 ちくま学芸文庫)より http://t.co/fDl28sMA

http://twilog.org/n291/date-121210


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2011年08月31日 - Twilog

創作的に写真を撮ることは、写真を流行にゆだねることだ。〈世界は美しい〉−−これがそのさいのモットーにほかならない。…こういう写真による創造的なものの真実の顔は、広告であり連想作用であるので、それに正当に対立するのは、暴露あるいは構成である。http://t.co/cHqeHF4

ヴァルター・ベンヤミンの言葉(http://t.co/cHqeHF4 )ですが、時代も状況も異なる昔々の話ですし、そんなものにベタに寄り縋ってもあまり意味はありません。思想家信仰系の「思考停止くん(さん)」にそういう方が多いので、念の為。

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加藤@catoki

中平卓馬を持上げる人が今になつてまた増えてゐるのだけど、彼らは中平の政治的な発言については何も言はない。まるで無かつたかのやうに、見て見ぬ振りをする。

加藤@catoki

自分らの理想である純粋写真家中平卓馬であつて欲しいからか。新左翼シンパの政治主義者では困るのか。『来たるべき言葉のために』からあれだけの量の文章をばつさり切り落してしまつて「復刊」だといふのだから、よほど都合の悪いことが書いてあるのだらう

例の巻末文章の削除は、オシリス澤田さんのジャッジである可能性が最も高そうです。【中平卓馬『来たるべき言葉のために』 - Osiris】http://t.co/sctgrdP

http://twilog.org/n291/search?word=%E6%BE%A4%E7%94%B0%E3%81%95%E3%82%93&ao=a

澤田さんが怖いんだ?とか語っていた方もやはり村の住人なのか、すぐにツイートを消去しています。版元で村的プレゼンスも高いようですし、女衒スキーム、口利き業スキーム等々に乗っかりたくてウズウズしている方々が多いんでしょう。だからそんな状況ができてしまうという。<@240sesame

マネージメント?でスペースも何もないところや、自称ギャラリストのディーラー、版画的ビジネスで回している謎の画廊、そしてデパート展等々に取り込まれて、飼い殺しにされてしまう人って村には多そうです。国際的に評価されても良いはずのベテランが、死後評価されるのを待つしかない原因もそこに。

“佐竹氏は、K−1を「奴隷と奴隷商人との商売」と表現し、大変なのは奴隷だが、儲けるのは奴隷商人だと書いています。リングスで前田氏と戦いたいと思っていた佐竹氏を石井氏が「K−1を立ち上げて“お金は二人で折半しよう”」誘ったとのことですが”http://t.co/Au9Q5LT

佐竹雅昭 パンチドランカー - Google 検索】http://t.co/wMOXiOG

240@240sesame

@n291 なるほど。村の人たちがそういった状況を作り上げてしまっていると。個人的には「ボケたおじいちゃんを良いように使う取巻き」的なイメージがあったのですが、そういう側面もあるのですね。なるほど。

もっと作家のほうも賢くならないといけないですね。やられっぱなしになっていると思います。ずぶずぶだとそれすら不可視になってしまうんでしょうけども。<@240sesame なるほど。村の人たちがそういった状況を作り上げてしまっていると。個人的には「ボケたおじいちゃんを良いように使う取

http://twilog.org/n291/date-110831


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年02月13日 - Twilog

“例えばこういう言い方をどこかで聞きかじってそれをさも自分で考えたかのようにさらりと再現する才能をぼくはあまり信用しない。それはライターや評論家、つまりぼくのような人間の才能であって、そうやって器用に何もかも語れることと、それが表現としてできることは一致しない。

しかしこの学生は、作品の内側にある論理性を発見し、それを自分の作品の「方法」に置き換えようとしている”(大塚英志『大学論』・第六章「ルパンの背中にはカメラのついたゴム紐が結んである」より)

“中途半端な美大やライティングコースでそういう学生同士の講評を見ていて感じているたのは、もっともらしい現代思想や美術論を語れる学生がその場を支配してしまうことの愚かさだ。なるほど「評論」されて初めて「価値」が生じるアートや文学を目指すにはそれも悪い経験ではない。

けれどもぼくは自分の中にちゃんと「方法」が意識され、それを「表現」として形にできて、そして同時にたどたどしくて少しもかまわないから自前の「ことば」にできた時、初めて他人にアドバイスができると考える”(大塚英志『大学論』・第六章「ルパンの背中にはカメラのついたゴム紐[略]」より)

http://twilog.org/n291/date-130213


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年02月16日 - Twilog

それはさておき、やはり「ネオコンポラ」という言葉は謎です。三浦和人さんや島尾伸三さんも、いわゆる「コンポラ写真」を代表する作家だと思います。そう考えると、「コンポラ写真」の中の、特定の作家の、特定の作品のみを論拠に、「ネオコンポラ」という括りが形成されているのかもしれません。

再度:「コンポラ写真」というあまり意味のない言葉には正しく成仏していただいて、個別の作家の営みとその可能性を検討したほうが良いかと思われます。これは、いわゆる「ニューカラー」や「女の子写真」についても同じ。

再度: 日本の「コンポラ写真」=「コンテンポラリー・フォトグラファーズ 社会的風景にむかって」×{桑沢デザイン(バウハウス[教育理念]+ニュー・バウハウス石元泰博]+シュルレアリスム[大辻清司]⇒牛腸茂雄、関口正夫)+(桑原甲子雄荒木経惟)} ※やや単純化した等式

「コンポラ写真」を翻訳と近代化の問題と捉えること。みたいなことを最近は考えていたりします(柄谷行人さん経由の大塚英志さん的なアイデア)。同様に、森山大道中平卓馬のアレブレボケをウィリアム・クラインの翻訳と考えてみること。この2つを合わせて、いろいろと考えることもできそうです。

Contemporary Photographers: Toward a Social Landscape (1966)の出展作家よりも、キュレーターであり、自身も写真家であるネイサン・ライアンズの作品のほうが、むしろ「コンポラ写真」の印象に近かったりすることも興味深い点です。

Contemporary Photographers: The Persistence of Visionが1967年。Private Realities: Recent American Photographyが74年。この頃の作品を流用して志賀理江子さん的な組みを考えたりとか

http://twilog.org/n291/date-130216


◇ n291: 【彼にできること/彼が望むこと】http://t.co/Cw ... - Twitter

【彼にできること/彼が望むこと】http://j.mp/YMFmAw  ※ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」〔第二稿〕のエピグラフより

https://twitter.com/n291/status/326857182786232322