Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

畠山直哉 - Yahoo!百科事典

写真家。岩手県陸前高田市に生まれる。1981年(昭和56)筑波大学芸術専門学群総合造形コース卒業。84年同大学院芸術研究科修士課程修了。大学2年のときより大辻清司(きよじ)に写真を学び、在学中から写真作品を発表しはじめる。以後、日本国内およびフランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカなどで個展を開催、また国内外で数多くのグループ展に参加。94年(平成6)イングランド中央部レイコックのフォックス・タルボット博物館で滞在研究。96年アメリカ、カリフォルニアのジェラシ・レジデント・アーティスト・プログラム(アーティスト、パメラ・ジェラシPamela Djerassi(1950―78)を記念してその両親により設立されたNPOによる滞在制作プログラム)に参加。写真集『Lime Works』(1996)と個展「都市のマケット」(1996、ギャラリーNWハウス、東京)により97年木村伊兵衛写真賞受賞。写真集『Underground』(2000)により東川(ひがしかわ)町国際写真フェスティバル国内作家賞、毎日芸術賞受賞。2001年、ミレニアムを記念し、1000人のアーティストが全英1000か所で滞在制作するThe Year of ArtistとJapan 2001という二つのプログラムの参加企画として、イギリス、ベッドフォードシャーミルトン・キーンズでレジデント・アーティストとして制作、また同年ベネチア・ビエンナーレ日本館「ファスト&スロウ」に出品。2002年には国内(岩手県立美術館国立国際美術館)およびドイツ(クンストフェライン、ハノーバーほか)でそれぞれ大規模な回顧展が巡回した。

1980年代後半に撮影を開始した日本各地の石灰石鉱山をテーマとするカラー作品「ライム・ヒルズ」(1986〜90)で注目される。続いて採掘された石灰石を精製しセメントなどへと加工する工場群を撮影した「ライム・ワークス」(1991〜94、「ライム・ヒルズ」とともに写真集『Lime Works』を構成)、石灰石鉱山の発破(はっぱ)の様子を遠隔操作したカメラで至近距離から撮影した「ブラスト」(1995〜99)を発表。この石灰石をめぐる三部作のほか、石灰石を原料にしたセメントで覆われた都市をテーマに、80年代末から撮影が続けられている高層ビルから街並みを俯瞰した作品や、護岸をコンクリートで固められた都市の川をたどる「川の連作」(1993〜94)、暗渠(あんきょ)内の地下水路を撮影した「アンダーグラウンド」(1998〜99年撮影。1999年同題の個展。2000年写真集『Underground』刊行)によって、「都市を垂直にたどる」試みを続けるなど、写真によってわれわれを取り巻く世界の成り立ち、そのネイチャー(自然/本質)をリサーチする仕事を展開してきた。そのリサーチは、写真というメディアや人間の視覚、それらを通じた認識などの自然/本質にも向けられ、写真における光をテーマに、夜景の中の光をフレーム内に組み込んだ光源によって実際に光らせる作品「光のマケット」(1995〜97)や、カメラ・オブスキュラ(暗い部屋に小穴をあけ、反対側の白い壁や幕に戸外の実像を逆さまに写し出す装置)を用いたドローイング作品「カメラ・オブスクラ・ドローイング」(1996〜97)、レンズとして作用し風景の倒立像を結ぶ無数の水滴に覆われたガラス越しに風景を撮影した「スロー・グラス」(2001)などを発表している。

[ 執筆者:増田 玲 ]

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高梨豊 - Yahoo!百科事典

写真家。東京・牛込に生まれる。1957年(昭和32)日本大学芸術学部写真学科卒業後、桑沢デザイン研究所の夜間部に入学、大辻清司(きよじ)に師事。1961年日本デザインセンターに入社、まず広告写真の分野で活動を開始する。1963年芸能人が素顔に戻った瞬間を活写した連作「オツカレサマ」を『カメラ毎日』誌1〜12月号に発表。この連作により、翌年日本写真批評家協会新人賞受賞。1966年『カメラ毎日』1月号に「東京人」を掲載、初期の代表作となる。高度経済成長期の大都市の公共空間に集う人々の様態を私的なまなざしによってとらえ、悲哀、孤独、疎外といった感情を巧みに引き出した。この連作にはロバート・フランクの写真集『アメリカ人』The Americansの影響が認められ、『アメリカ人』同様にグラフ・ジャーナリズムにおける「客観的」なメッセージ伝達の失効という時代状況を鋭く衝(つ)いている。「東京人」ともう一つの連作「Tomorrow」を出品した1967年のパリ青年ビエンナーレで国際写真部門最高賞受賞。1968年写真同人誌『プロヴォーク』を写真家中平卓馬(なかひらたくま)、評論家多木浩二(1928―2011)、詩人・美術評論家岡田隆彦(1937―1997)らと発刊する。「東京人」以後高梨が追求した、流動して止まない都市の実相を、高度な叙情性と気象や物質に対する優れた感受性によってとらえる作品は、1974年の初の写真集『都市へ』に結実した。1960年代後半から1970年代前半にかけての高梨の写真は、森山大道(だいどう)、中平らの写真と、印画紙上の粒子の粗(あら)さや、軟焦点の描写において形式的な共通性を示すが、高梨の場合写真に写される形を全面的に破壊することを回避し、人間のいる環境を描写することへの私的な関心を持ちつづけていた。1960年代後半にはじまる一連の作品のもつ内省的な側面によって、アメリカの同時代の新しいドキュメンタリーの動向を日本に翻案・適用した「コンポラ写真」(アメリカ、ニューヨーク州ロチェスタージョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館におけるグループ展「コンテンポラリー・フォトグラファーズ――社会的風景に向かって」(1966)に見られる、明快な社会的メッセージ性を抑制し、撮影対象との物理的な距離感を保ちつつ、プライベートな視線を重視した動向の写真と、類似した傾向を示すと当時理解された一連の日本の写真を指す。この理解は曖昧(あいまい)で必ずしも正確なものではなかった)の先駆的存在とみなされ、後続する写真家の指標となった。

1977年写真集『街』を刊行。このカラーの連作では主に6×7センチメートル、4×5インチといったより大きなフォーマットのカメラを用いて、都市の一隅を丹念に記録した。『街』は、高梨のもう一つの側面である、都市の構造分析への関心を物語る作例であり、こののち『都の貌(かお)』(1988)、『地名論』(2000)といった写真集にまとめられた代表作にも、同様の禁欲的な記録や分析への意思と、都市をテクストとして読解する試みが定着している。『地名論』では、歴史的な記憶を新規の建造物や道路が次々に隠蔽していく東京に、わずかにかいま見られる歴史的痕跡を冷静に拾い上げようとする。一方で、『都市へ』の中にあった湿潤な気候風土を官能的に写し取る仕事は、「Pre-landscape(風景以前)」という副題のついた写真集『初國(はつくに)』(1993)において、近代的な風景の成立から遡(さかのぼ)って、日本の神話や宗教的な記憶の場所をたどる営為に発展した。

日本写真協会年度賞を二度受賞(1985、1994)しているほか、東川(ひがしかわ)町国際写真フェスティバル国内作家賞受賞(1993)。1983〜2000年(平成12)東京造形大学教授。

[ 執筆者:倉石信乃

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◇ 大辻清司 - Yahoo!百科事典

写真家。東京市城東区大島(現東京都江東区大島)生まれ。1942年(昭和17)東京写真専門学校(現東京工芸大学)芸術科に入学(第二次世界大戦後に44年9月付け卒業認定を受ける)。在学中の43年に陸軍に応召。終戦後除隊、写真スタジオや雑誌『家庭文化』編集部勤務を経て47年(昭和22)新宿で写真スタジオを開業。49〜52年美術文化協会に参加。53年実験工房、グラフィック集団に参加。56年雑誌『芸術新潮』嘱託写真家となり、1970年代まで美術雑誌、建築雑誌や企業PR誌などさまざまな出版物のための写真撮影を担当。58〜78年に桑沢デザイン研究所で写真の授業を担当し、以後、東京造形大学(1967〜76)、筑波大学(1976〜87)、九州産業大学(1987〜96)などで教鞭をとる。1960年代から写真雑誌、美術雑誌などにエッセイや写真評論を寄稿、同時代の写真の観察者、批評家としても大きな役割を果たした。

中学時代に写真雑誌『フォトタイムス』に掲載されたヨーロッパの前衛的な写真や滝口修造、美術家阿部展也(のぶや)の論考などに触れて写真家を志した大辻は、戦後、美術家斎藤義重(よししげ)と知り合い、斎藤の所属する美術文化協会に参加。同協会展に出品したシュルレアリスム的な意識や造型感覚の際立つ作品などによって写真家としての評価を得た。また絵画、詩、音楽など多様なジャンルの表現者が集まり、総合的な芸術を目指した実験工房(1951年結成、58年ごろまで活動)や、デザイナーや写真家などグラフィック・デザインに携わる専門家によって結成されたグラフィック集団(1953〜57)のメンバーとして、『アサヒグラフ』誌のコラム「ΑPN」のカット写真(1953〜54。山口勝弘(1928― )らとの共作)や、フィルムに直接書きこみや着色を加えた抽象的映像表現による実験映画「キネカリグラフ」(1955。石元泰博・辻彩子(さいこ)(1929― )との共作。シネカリグラフともいう。音楽・武満(たけみつ)徹、命名・滝口修造。第2回グラフィック集団展で発表)など、さまざまな共同制作を行った。

1960年代以降は教育者としての活動に比重を移し、高梨豊、山田脩二(1939― )、牛腸(ごちょう)茂雄(以上桑沢デザイン研究所)、島尾伸三(1948― )、鈴木秀ヲ(1953― )(以上東京造形大学)、畠山直哉筑波大学)など多くの写真家を育てる。60年代末には日本の若い写真家たちによる日常的光景に淡々とアプローチする傾向の写真を、ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館(アメリカ、ニューヨーク州ロチェスター)の「コンテンポラリー・フォトグラファーズ――社会的風景に向かって」展(1966)に結びつけて分析し、その新傾向が「コンポラ写真」と通称されるきっかけをつくった。このころから自身も日常的光景のスナップショットを意識的に試みはじめる。事物の存在に鋭く迫る従来の作風に加え、後に自らシュルレアリスムにおける自動筆記と結びつけて分析したスナップショット作品は、写真を介した探究の起点となる主観、自らの意識の立脚点への問いとして大辻の作品世界に広がりを加えた。75年に『アサヒカメラ』誌に連載された写真と文章による「大辻清司実験室」では、自らに実験者、被験者という二重の役割を課し、自分の撮影行為を客観的に分析、写真を介した世界とのかかわり方、そこに現れる主観と客観についての根源的な問いを展開した。

長く教育者、批評家としての業績が評価されてきたが、90年代末より表現者としての仕事が、「大辻清司写真実験室」展(1999、東京国立近代美術館)などを通じて再評価されている。

[ 執筆者:増田 玲 ]

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